あれやこれやと色々ありましたが、気が付けば『1789-バスティーユの恋人たち-』の初日まであと2週間。
早いですね~、ほんとうに。
今回は、この作品に登場する「実在の人物」についてお勉強してみよう!シリーズ第1弾です。
今回は、ありちゃん(暁千星)が演じるカミーユ・デムーランと、その婚約者リュシルについてまとめてみました。
観劇前の予習、とくに実在の人物や史実を知っておくと、舞台を見るときに何倍も楽しめますのでお勧めです♡
カミーユ・デムーラン
簡単にどんな人かと言いますと・・・
- 1789年7月14日に起こったパリ市民の蜂起を、煽動したジャーナリスト兼政治家
- マクシミリアン・ロベスピエールとは、パリのルイ・ル・グラン大学の同級生
- 革命で重要な役割を果たしたダントンの親友であり、政治的同盟者
- 1794年4月5日、ダントンと共に逮捕され、処刑
『ベルサイユのばら』や、この『1789-バスティーユの恋人たち』もそうですが、フランス革命を題材とした作品って、バスティーユ攻撃をクライマックスにもってくる作品の印象が強いですよね。
でも、バスティーユ攻撃は「革命の始まり」となったきっかけの出来事であって、本当の革命はここから数年かけて成し遂げられたもの。
宝塚歌劇でいえば、何年か前に雪組で上演された『ひかりふる路』なんかは、混迷する革命の中でロベスピエールたち革命家の生き様を描いていましたね。
今回、デムーランのことをまとめながら、革命前夜の物語じゃなく、バスティーユ攻撃の一斉蜂起をまたいで、その後までを描いた1本物が見てみたいな~と思いました。
デムーラン、ダントン、ロベスピエール、ブリッソー(1789には登場しませんが革命期ジロンド派の指導者です)を軸にした革命の物語をね。
優秀な学生から弁護士へ
デムーランは、1760年3月2日、フランス北部に位置するピカルディ地方のギーズで生まれました。
幼い頃から優秀で、パリのルイ・ル・グラン大学に進んだデムーランはマクシミリアン・ロベスピエールやルイ・マリー・スタニスラス・フレロンなどの著名な同時代の人々と机を並べて学び、特に、古典文学と政治の研究に優れていたといいます。
大学卒業後、デムーランは法律でのキャリアを追求し、1785年に弁護士事務所を立ち上げ仕事を開始しますが、軌道にのせることはできず、生活は貧しかったと言われています。
その原因として、彼の吃音と猛烈な気性があったようです。
境地に立たされたデムーランは、やがて自身の才能を発揮する代替手段として「書く」ことに目を向け始めます。
国家の旧体制を批判するパンフレット「自由なフランス」などを刊行し、次第に名を知られるようになっていきました。
民衆よ、武器を取れ!
1788年には革命の予告所とも言うべく「フランス人民の哲学」という書籍を刊行しています。
そして翌1789年7月、財務長官ジャック・ネッケルが罷免されたことをきっかけに、パレ・ロワイヤル広場でパリ市民に向かってこう呼びかけます。
「民衆よ、武器を取れ!」
デムーランはパリ民衆に一斉蜂起を促し、一躍、脚光を浴びることになったのでした。
とはいえ、弁護士としてのキャリアを確立することが困難なまま、パリでの生活は苦しかったといいます。
それでも国民議会(三部会)の召喚を取り巻く政治改革の流れに熱狂し、政治ジャーナリストとしての地位を築いていくことになるのです。
革命が始まると、デムーランはコルドリエ・クラブに参加、ダントンの秘書となりさらに活動の場を広げていきました。
民主主義思想を展開する「フランスとブラパン(隣国ベルギーの地名)革命」というニュースペーパーは、1789年11月から2年に渡って発刊され、デムーランを革命推進の担い手として重要な役割へと押し上げていきます。
それと同時に、デムーランの先鋭的な政治・社会論評が人々の高い人気を呼び、それまでの貧困から抜け出すことができたのです。
リュシルとの結婚
そしてバスティーユ攻撃の翌年1790年12月。
デムーランは7年越しの恋を実らせ、10歳年下の資産家の娘リュシルと結婚します。
結婚式には、友人であるロベスピエールや、ブリッソーなども招かれました。
この2人は、後のジャコバン派、ジロンド派の指導者となる人物です。
次々と政治思想を掲げたニュースペーパーを発刊、ジロンド派への攻撃の急先鋒となったデムーランは、一方で、ダントンと共に寛容主義を唱え、恐怖政治を推し進めていた盟友ロベス・ピエールに反旗を翻します。
処刑台へ
このことが原因でジャコバン派議員のサン=ジェストから告発され、粛清にあったデムーランは、1794年4月5日、ダントン派のひとりとして処刑されました。
デムーランは処刑される前の裁判で自身の年齢を聞かれ、こう答えたといいます。
「33歳、サン・キュロットたるイエスと同じ年齢」
深い。。。
こうして、カミーユ・デムーランの人生は34年で幕を下ろすことになりました。
(処刑されたのが4月5日、誕生日が3月2日なので、逮捕され裁判のときには33歳だったのだと思われます)
※追記:逮捕されたのは3月30日だったようなので、年齢の数えが違ったのでしょうか・・・?
「キュロット」とは、当時の貴族が着用していた半ズボン(短いズボン)のことで、「サン・キュロット」というのは「キュロットをはかない」の意味です。
職人や商店主などの庶民、小ブルジョワと言われる人々を指しています。
この言葉はもともと、貴族の人々が下層階級の庶民に対して用いた蔑称の意味を持つ言葉でしたが、フランス革命において、「革命を推進する人々」を指す言葉として一般化していました。
革命派のエリートであるジャコバン派の人々は、「議会での演説」を武器としましたが、同じ革命派の中でも、サンキュロットと呼ばれた人々は「行動」を武器としたと言われています。
リュシル・デュプレシ
リュシルはデムーランの婚約者。
『1789-バスティーユの恋人たち-』の中では、、婚約者のままで物語が終わってしまいますが、、、
この二人はのちに結婚しています。
良家のお嬢様
1770年に、母アネット・デュプレシと、大蔵省官僚であった父、クロード・デュプレシの間に生まれました。
幼い頃からあまり体が強くなく、夢見がちな少女であったといいます。
やがて美しい女性に成長したリュシルには、莫大な持参金と、その美貌に魅かれた男たちからの、求婚が絶えることはありませんでした。
しかし彼女は、リュクサンブール公園で出会った貧乏で、貧相な青年カミーユ・デムーランと恋に落ちてしまうのです。
当然のことながら、身分の違うデムーランとの恋には父親が猛反対、2人の交際を認めることはありませんでした。
しかし、デムーランは家庭教師としてデュプレシ家に出入りすることになり、二人は密かに愛を育んでいきます。
デムーランとの結婚
1789年7月、パレ・ロワイヤル広場で民衆の蜂起を訴え、以後、革命期のジャーナリストとして名を上げたデムーラン。
ようやくリュシルの父親から交際を認められ、1790年12月29日、サン・シュルピス教会で結婚式を挙げることができました。
2年後の1792年7月6日には、長男オラスも誕生、その名付け親はロベスピエール。
彼とデムーラン一家との親密な付き合いは、のちにジャコバン派議員のサン=ジュストによって告発され、夫、カミーユが逮捕されるまで続いていました。
また、リュシルの実の妹であるアデルは、ロベスピエールに仕えていたこともあったようです。
やがてリュシル自身もジャコバン派の思想を深く理解し、革命家デムーランを影でしっかりと支えるようになります。
逮捕と処刑
しかしジャコバン派内部の権力争いが激化。
ジャコバン派のリーダーとなって恐怖政治を進めるロベスピエールに対し、ダントンと共に寛容主義を求めた夫デムーランは逮捕、1794年4月5日に処刑されました。
激しい絶望感に襲われたリュシルでしたが、その深い悲しみに浸る間もなく、今度は自分自身に「反革命」の容疑がかかります。
そして「夫を解放するために刑務所での暴動を企てた」として、夫の処刑からわずか2週間後に逮捕されてしまったのです。
当時はジャコバン派が敷いた「反革命容疑者法」なる法律のもとで、「反革命的である」との証言だけで逮捕されてしまう状況でした。
リュシルもまた、ダントン派の処刑が行われる前夜に「牢番と会話を交わした」ということだけで、告発されたのでした。
1794年4月13日、リュシルは夫と同じくギロチンに送られることが決定します。
しかし彼女は、恐怖におびえながら死んでいった夫よりも、堂々としていたといいます。
「もうじき夫のカミーユに会えるのだから、私は幸せです」
と嬉々として断頭台に登っていったのです。
このとき、リュシルはまだ24歳という若さでした。
まとめ
デムーランは、あの革命の火ぶたとなったバスティーユ攻撃を、実際に先頭に立って煽り立てた人なんですね。
この記事を書いていたら、久しぶりに月組公演が観たくなり、気になるところをちょっとだけ、、、のつもりが、結局全編見てしまいました。
実際の歴史をたどってから『1789-バスティーユの恋人たち-』で描かれている凪七瑠海デムーランを見ると、「こんなに明るい感じなの!?」っていう、、、妙な違和感が。(笑)
これがミュージカルよね~って。
フィナーレもどんなナンバーになっているのかが楽しみですね!
さてはて、星組版はどこがどう変更になっているのでしょうか。
とにかく楽しみです♡
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