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ポルトガル

ポルトガルを旅する【9】ここにポルトガル誕生す 初代国王生誕の地の巻

ギマランイス城

縁結びの神様が祀られているというアマランテ観光を終え、今度は初代ポルトガル国王アフォンソ・エンリケスの生まれた町「ギマランイス」へ向かいます。

分かりにくい長距離バスのターミナル。

ターミナルに到着するバスの運転手さんたちに、片っ端から行き先を確認してなんとか「ギマランイス」行きのバスに乗車。

乗客は自分たちを入れて2組のみ、その一組も途中で下車していき、ついに sora たち2人だけになり、なんとも不安な旅路でしたが、ちゃんと「ギマランイス」に到着しました!

初代ポルトガル国王が生まれた町「ギマランイス」

ギマランイス

ギマランイスは、初代ポルトガル国王アフォンソ・エンリケスが生まれた町です。

1095年、ブルゴーニュ家出身のアンリ・ド・ブルゴーニュは、カスティーリャとレオンの王子、アルフォンソ6世の娘テレサと結婚しました。

そして1109年6月25日、エンリケとテレサの息子、アフォンソ・エンリケスがギマランイス城内で誕生します。

そして1128年、アフォンソ・エンリケスは宗主国であるカスティーリャとレオンの国王アルフォンソ7世に反旗を翻し、ポルトゥカーレ公爵として独立しました。

その後のオーリッケの戦いで、イスラム勢力に大勝したエンリケスは1139年、ついにポルトガル王アフォンソ1世を称したのです。

1143年にはローマ教皇の仲介によってアルフォンソ7世もエンリケスのポルトガル王位を承認、ポルトガルはカスティーリャとレオン王国から正式分離し、対等の国家となりました。

ギマランイスの旧市街一帯は、歴史地区として世界遺産に登録されています。

世界遺産「歴史地区」へ

ギマランイスのバスターミナルから、見どころの集まる歴史地区までは少し距離がありますが、十分に歩いて行かれる距離でした。

そして心配していたお天気も、ここギマランイスでは、突き抜けるような青空快晴!!

近代的な大型ショッピングセンターやビルが立ち並ぶ新市街を通り抜けてたどり着いたのが、旧市街の入り口にあるトウラル広場

ギマランイス

だだっ広い広場の一角に、城壁らしきレンガの壁がそびえ立ち、その壁にはこう書かれています。

「ここにポルトガル、誕生す」

この壁の向こう側が歴史地区、旧市街です。

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ギマランイス「歴史地区」

世界遺産

ギマランイス

旧市街には細い路地がたくさんあって、もちろんその路地は折り目正しく通っているわけではないので、とても狭いエリアであるにもかかわらず、時々迷子になりそうでした。

ギマランイス

同じような路地に見えて、一本一本の路地には個性があって楽しいです。

そして、観光客が少ないオフシーズンに旅をすると、そこで暮らしている人たちの原風景が見えるので、いつもそういった時期を狙ってしまいます。

ギマランイス

壁に映り込む十字架の影がなんだかとても素敵で、一枚パチリ。

そしてギマランイスのこの雲ひとつない晴天に、「こんなに晴れて、大丈夫!?何か起きないかな?」と、逆に心配になってしまう自分がいました。(笑)

 ノッサ・セニョーラ・ダ・オリヴェイラ教会

世界遺産

なんだかとっても長い名前ですが、日本語に訳すと「オリーブの樹の聖母教会」というのだそうです。

ロマネスク建築とゴシック建築が融合した教会です。

ノッサ・セニョーラ・ダ・オリヴェイラ教会

教会の前にあるアーチは、1340年に起こった「サラードの戦い」の勝利を記念し、2年後の1342年に建てられました。

このアーチが完成するときに、教会の前にあったオリーブの幹が突然葉を出したという伝説を基に、こうした名前で呼ばれるようになったそうです。

外部の構造自体は14~15世紀ごろにゴシック様式で改築されましたが、聖堂内部は初期の様式をとどめているといいます。

残念ながら内部の見学はできませんでした。

教会前のオリベイラ広場にはカフェが並び、北側には旧市庁舎があります。

旧市庁舎(奥)旧市庁舎(手前)オリーブの樹

因みに、別の場所にある新市庁舎はこちら。

市庁舎

いずれにしても歴史を感じさせる建物ですね。

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旧市街を抜けて高台のギマランイス城へ

ひとまず旧市街の狭い路地を抜けて、今度は少し高台に位置する「ギマランイス城」へ向かいます。

ギマランイス

ポルトガルという国は、どこもかしこも高低差が激しくて、移動する度に登山かと思うくらいの坂。

そして風情ある石畳が敷き詰められているので、とにかく体力、筋力の消耗が激しいです。

当時は普段からハイヒールでカツカツと数時間なんて平気で歩いていたヘビーwalker だった sora ですが、さすがに今回の旅では足裏に水ぶくれが…。

さて、話は戻して。

旧市街を出たところからひたすら続く坂を上りきったところに、ようやくお城が見えてきました!

ギマランイス城

お城、そして初代ポルトガル国王アルフォンソ・エンリケスの像まではたどり着いたものの、入り口はどこ~!?

結局、苦労して登り切った坂道をふたたび戻るという大失態。

そしてそこに費やす体力は1.5倍増し。

 ギマランイス城

世界遺産

ギマランイス城

第3代ポルトゥ・カーレ伯ヘルメネギルド・ゴンザレスの寡婦として政務を引き継いだ夫人、ムマドナ・ティアスは、950年と951年に受けた天啓に従い、この地に修道院を建造しました。

ギマランイス城

そしてその後、959年にバイキングの襲撃から町と施設を守るためにこのギマランイス城を築きました。

初代ポルトガル国王であるアフォンソ・エンリケはこの城で誕生しています。

この城は外から見ると、今でもそれなりに立派なお城に見えますが、実は内部はガラーンとした空洞で、城壁や一部の塔以外は廃墟となっています。

ギマランイス城

見学用の柵ですら、一切設置されていないので、塔の上り下りや城壁の上部を歩くときには、けっこうなスリルを味わうことになります。(笑)

一応、中央にある塔の中がささやかな展示スペースとなっていて、監視係の男性がひとり常駐して時々見回っているようでしたが、とっても暇そうで気の毒。

でも逆にこれがオン・シーズンだとしたら、監視の目が行き届かずかなり危険かもしれないですね。

この城には7つの塔があり、塔の上からはギマランイスの町が一望できます。

ギマランイス城

正面の大きな建物は旧ブラガンサ公爵館で、現在は政府公館として使用されています。

手間の建物が聖・ミゲル教会です。

 聖・ミゲル教会

世界遺産

ギマランイス城

ギマランイス城のすぐ下にあるこの教会は、12世紀に建てられたロマネスク様式の教会です。

この教会でアフォンソ・エンリケスが洗礼を受けたと言われています。

ただ、教会は過去に一度崩壊していて、現在の建物は20世紀になって再建されたものなのだそうです。

外観も石を積み上げただけの、小さくてシンプルな教会ですが、教会の内部も十字架や祭壇などは何もなく、ただガラーンとしていました。

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やっぱり英語が通じない!本気で困った …

ギマランイス城の見学したのち、まだ2時間ほど時間に余裕があったのでしばしショッピングを楽しんだあと、鉄道でポルトへ戻ることに。

Train も station も通じない …

旧市街への入り口、トウラル広場からポルトガル鉄道の駅までは10分程度で到着できる「はず」だったのですが、迷いました。(笑)

そして道すがら地元の中年女性に話しかけたものの、ま~ったく英語が伝わらず笑顔で逃げられる。

ならばと、今度は男性をつかまえて尋ねてみる。

やはり全く英語が通じず。

はじめは「このリバーサイドを行けばいいの?」とかご丁寧に聞いていたのですが、まったく理解してもらえないので、とにかく「station はどこ?」「train はどこ?」と必死で尋ねる。

理解してもらえず、行き詰る。

でもね、その男性は一生懸命 sora たちが知りたいことを理解しようと頑張ってくれてたから、無下に「もういいです」も言えない状況になっていて。

もうこうなったら「ガタ~ン、ゴト~ン」ってジェスチャーゲーム(音付)でいくしかないんじゃないかってくらいになってから、ようやく気付いたんです。

そういえば、ガイドブックに「いざというとき」のポルトガル語例文とか単語とか載ってるじゃん!!!

普段の旅行では、とりあえず英語さえ話せばなんとかなってきたので、ガイドブックに頼るという一番簡単な方法が思いつきませんでした。(笑)

で、さっそくガイドブックに載っている「でんしゃ」を見せると、あちらもちょっとホッとした様子で駅の方角をジェスチャーで教えてくれました♡

いや~ガイドブック、。www

ちょっとイギリス留学の思い出話

で、思い出したんです。

20代後半でイギリスへ留学して2年くらい過ごしましたが、その時にハウスメイトだったブラジリアンの女の子と会話していたときに、フォークとかナイフとかを英語で言えなくて。

はじめは「え、?フォークだよ??」「なんで?ナイフでしょ??」ってこっちの頭の中が?マークでいっぱいになってしまったのですが、つまりはこういうこと。

日本人は外来語として「フォーク」「ナイフ」「スプーン」をほぼ英語と同じ発音日本語として使用していますが、彼女たちには母国語で「bifurcação(フォーク)」「faca(ナイフ)」「colher(スプーン)」という独自の単語があるため、たとえば英語が苦手な日本人に「茄子って英語でなんて言うか知ってる?」って聞くことと一緒なんだな、と。

環境って大事ですね。

日本に外来語や横文字が溢れているおかげで、それが良いかどうかは別として、子どもの頃から一定の英単語が自然と頭に入っているわけですから。

そしてこうした経験は、自分の中の「あたりまえ」は自分の物差しでしかなく、常に相手の立場に立って考えてみるという深い教訓にもなります。

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ポルトのサン・ベント駅へ

ギマランイスからポルトのサン・ベント駅までは、鉄道で約1時間15分かかりますが、バスなら1時間弱で到着するらしいので、鉄道はずいぶん遠回りをするみたいです。

鉄道駅も歴史と共に

バスの方が早く着くものの、ポルトのバスステーションがホテルから少し離れていたため、時間はかかっても、よりホテルに近いサン・ベント駅に到着できる鉄道を選択しました。

このポルトのサン・ベント駅にも歴史があります。

 サン・ベント駅

サンベント駅

20世紀のはじめ、修道院跡地に建設されたというサン・ベント駅。

駅舎のホールの壁を飾る、見事なアズレージョが有名です。

サンベント駅1930年にジョルジュ・ニコラによって製作されたもので、ここにはセウタ攻略やジョアン1世のポルト入城など、ポルトにまつわる数々の歴史的な出来事が描かれています。

もう動けない!夜ご飯は「三角」

1時間15分の鉄道の旅を終えた sora たちは、長距離バスでの2都市訪問、1日中歩き回った疲れがピークを迎えていました。

朝食

ポルトガル鉄道は相変わら車内はとってもきれいで、しかもガラガラでの運行だったため、そーとーリラックスさせていただきました。(笑)

でも、さすがにレストランとかに寄るエネルギーは残っていなくて、商店で見かけてずっと気になっていた「三角」クロワッサンを購入、ホテルにまっしぐらでした。

因みにこの「三角」は春巻きみたいなもので、以前、ベルギーでも小さな商店のレジ横で売っていたのを3日間毎日食べ続けたことがあります。(笑)

似たような味で、どちらもすごくおいしかったです!

ヨーロッパは「三角」の春巻きがスタンダードなんですかね!?

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最終回に続く

ポルトでの滞在もあっという間に終わり、明日はついに最終目的地である「コインブラ」へ向かいます。

コインブラと言えば、観光2日目に訪れたアルコバサ修道院に眠っている、ペデロ1世とイネスの悲恋物語の舞台となった地です。

しかも宿泊するホテルは、まさに、この二人の悲恋の舞台となったとされるマナーハウスです。

旅のクライマックス。

ポルトガルの旅も間もなく終わりに近づいてきました…

次回、最終回へ続く。