1995年1月17日、早朝。
いまから28年前の今日、阪神淡路大震災が発生し、日本が驚きと衝撃、そして悲しみに包まれました。
sora は被災エリアに住んでいなかったので、その渦中にあった方々の苦しみを想像することしかできず、ましてや語ることなどできません。
でも、あの震災を知らない世代が多くなる中で、決して忘れないという思いを込めて、あの時のこと、そして宝塚歌劇がどんな状況だったのかを振り返ってみようと思います。
まさかの光景に絶句 …
あの朝、被災地以外も日本各地、広範囲にわたって揺れを感じました。
いつもより強い揺れで目を覚まし時計を見ると、出勤にはまだ少し早い5時46分。
そのまましばらく布団のなかでグダグダしてから起床し、いつも通りに出勤しました。
職場では、朝のニュースを見て出勤したスタッフ同士、「朝の地震、ちょっと長かったよね」「関西では大きな被害が出ているらしい」という会話程度でした。
しかしながら、お昼休憩でテレビをつけると、そこには目を疑う光景が映し出されていたのです。
高速道路が橋桁から折れグシャリとねじれるように倒れ、地面は大きくひび割れ口を開け、ある地区では町中に火の手が上がっていました。
歴史の教科書で見た戦後の焼け野原にも似た風景が、いま目の前のテレビに映し出されているのです。
率直に「信じられない」というのが当時の思いでした。
そして画面上には被害者の人数が刻まれ、救助活動が進むにつれ、どんどんその人数が増えていきます。
この震災で命を落とした方は6,434人にものぼりました。
宝塚歌劇団はその時 …
この地震は兵庫県の淡路島北部( or 神戸市垂水区)沖の明石海峡を震源として、兵庫県南部にマグニチュード7.3(当時の指標)の揺れを引き起こしました。
近畿圏の広い範囲で大きな被害が出て、特に震源から近い神戸市各地区の被害は甚大なものとなりました。
宝塚歌劇団が本拠地を置く、兵庫県宝塚市にも大きな被害がでました。
阪急電車も線路上で横転しました。
このとき宝塚歌劇団の生徒は全員無事でしたが、残念なことに宝塚バウホールの支配人であった細川さんがこの震災でお亡くなりになりました。
宝塚大劇場、バウホールの閉鎖

当時、宝塚大劇場では1月1日~2月13日の予定で、花組公演『哀しみのコルドバ』『メガ・ヴィジョン』の上演期間中でした。
この公演は安寿ミラ&森奈みはるのトップコンビのサヨナラ公演でしたが、この震災により公演は事実上1月16日で中止に。
お隣の宝塚バウホールでは、1月14日から高嶺ふぶき主演の雪組公演『グッバイ・メリーゴーランド』の上演中でしたが、こちらもわずか3日の公演ののち、中止となりました。
その後、2月17日 – 3月27日に予定されていた、天海祐希&麻乃佳世コンビ『ハードボイルド・エッグ』『EXOTICA!』の宝塚大劇場公演も中止になっています。
劇場の被害状況
美しかった花のみちは崩れ落ち、沿道に並んでいた昔からのお店や家々にも大きな被害が出ました。
あの沿道には昔、ヅカふぁんが集う個人経営のペンションなどもありましたが、地震の影響は甚大だったようです。
大劇場への影響も大きいものでした。
この当時の大劇場は、2年前に旧劇場から建て替えを行い、段階を踏んで部分ごとにプレオープンしていて、いよいよグランドオープン間近という時期。
当時は大劇場へ足を運ぶたびにどんどん工事が進んでいて、ワクワクしたものです。
劇場のあの広~い、テラスに面したシャンデリアが吊るされたロビーホールも、仮設時にはべニア板の上を歩いていたような記憶があります。
いよいよグランドオープンを待つばかり、というところまで来たタイミングでのこの震災。
宝塚大劇場では、天井のスプリンクラーが数十個も壊れて水をまき散らし、新調されたばかりの客席や、倉庫に保管されていた大切な衣装が水浸しになったといいます。
舞台の盆もその影響で動かず。
リニューアルされたばかりの、コンピューター制御による最新の舞台装置は制御不能、約130トンといわれる舞台装置を支えていた、ボルトは真っ二つに折れてしました。
ロビーホールの壁にも大きな亀裂が。
舞台上で回転盆を修理している職人さんたちの写真を新聞で見て、いろいろな思いを抱いたものです。。。
公演の再開は名古屋から
当時大劇場の公演中だったヤンさん(安寿ミラ)は、震災の朝、大変なことになったと思いながらも、楽屋入りの準備をしていたと言います。
震災発生後、メディアを通じてタカラジェンヌの思いに触れることが多かったあのころ、、感動させられることばかり。
無事幕を開けた中日劇場公演
歌劇団が公演を再開したのは震災からわずか2週間後の2月2日。
大劇場やバウホール公演が中止になる中、2月2日~2月15日、名古屋の中日劇場で宝塚歌劇の公演が再開されました。
毎年この2月は中日劇場公演が組まれていたので、そのスケジュール通り、新トップとなった麻路さき率いる星組公演『若き日の唄は忘れじ』と『ジャンプ・オリエント!』が上演されました。
大劇場の倉庫がスプリンクラーの故障によって、衣装やその他に大きな被害を受けたにもかかわらず、予定通り名古屋での公演の幕を開けることができた理由は、年明け前にすでに大道具や公園に必要なものを名古屋に運んでいたようです。
当時、新聞記事でそんなことを読みました。
そして名古屋入りしたまりこさん(麻路さき)たち星組メンバーが、公演再開に先駆け、名古屋でインタビューを受けていたのもよく覚えています。
でも、実はまりこさん、あの地震で足を負傷していました。
ご本人ものちのインタビューで「中日劇場の稽古中は、無事に主役が務まるか-。稽古日程も足りなくて初日に間に合うのか-。不安ばかりでした。」と振り返っていらっしゃいました。
サヨナラ公演が中止になった花組
大劇場でのサヨナラ公演が中止となってしまった花組さんは、ひと足先に再開を果たしていたバウホールで、2月28日~3月5日の1週間、安寿ミラを中心とした『LAST DANCE』を上演しました。
当時、ヤンさんは卒業後の芸能活動を「しない」と公言していました。
ゆえにファンとしても、この大震災の現状を頭では理解しつつも、ヤンさんの宝塚大劇場での卒業公演がなくなってしまったことをとても残念に思っていました。
でもね、人って温かいですよね。
当時、自身も次回作『ミ-&マイガール』での退団を発表していた月組トップスターのゆりちゃん(天海祐希)や、雪組トップスターであったいちろちゃん(一路真輝)らが「自分たちの公演の日程を削ってでも、ヤンさんの最後の舞台を!」と、劇団に要望していたとか。
そして、演歌歌手の細川たかしさん。
3月に「劇場・飛天」(今の梅田芸術劇場です)で行う予定であった自身の公演の日程を、半分、ヤンさんのために空けてくれたのです。
細川さんは「この先舞台に立たないと聞いて、ぜひ関西でのサヨナラ公演をさせてあげたい」と話されていましたね。
そして、『LAST DANCE』の東京公演を終えたのち、3月18日 – 3月27日に大劇場で中止になった『哀しみのコルドバ』と『メガ・ヴィジョン』を上演することに。
それでも「ヤンさんの大劇場でのサヨナラショーなしに、宝塚歌劇の完全復活はないよね」というファンの熱い思いは消えず、大劇場での安寿ミラ・サヨナラショーの実現を求める署名活動まで展開されました。
その甲斐あって、4月3日~4月29日の東京宝塚劇場の公演を終えた、5月4日と5日の2日間『安寿ミラ 宝塚大劇場 さよならショー』が実現。
5日には、恒例のサヨナラパレードも行われました。
みなさん、ファンの声は届きます!!!
大劇場公演の代わりに月組はバウ公演
大劇場公演『ハードボイルド・エッグ』『EXOTICA!』が公演中止となった月組は、その代替公演として3月12日 ~3月25日にスター総出演の『Beautiful Tomorrow!』を上演しました。
当時、月担だった sora は、この公演、劇場では観られませんでしたが、ビデオを買って何度も何度も繰り返し見ていたのを覚えています。
元気をいっぱいもらえるショーでしたね。
ゆりちゃんらしい、ナチュラルな魅力あふれる大好きなショーでした。
出演者全員が横一列に並び、それぞれ被災した時のことを「ひとこと」で語る場面があり、きっと本当はもっと深刻な場面だったと思う内容を笑顔で語る生徒さんたち。
冷蔵庫が歩いてきた!って言っている人もいましたね。
経験しないとわからない恐怖、なんとも言えない気持ちになりつつも、明るく語る皆さんの笑顔に、宝塚という夢の世界の存在意義を改めて考えさせられた sora でした。
余談ですが、ゆりちゃんはこの公演の後、東京公演のみとなった『ハードボイルド・エッグ』『EXOTICA!』に出演し、次の『ミー&マイガール』で卒業していきました。
震災によって大劇場での上演がまるまる1公演飛んでしまったことから、劇団からは退団を延期することも打診されたといいます。
でも、そういうことじゃなく… とゆりちゃんの「予定通り退団」という決意は変わらなかったようですね。
さまざまな古き無意味な(ま、これは人ぞれぞれの考え方があると思いますが)悪しき習慣を改革してきたゆりちゃんなので、我が道を行くのも「らしい」と、ファンも納得してたんじゃないかな。
大劇場は『国境のない地図』で再開
甚大な被害を受けた宝塚大劇場の舞台が再開したのは、震災から約2か月半経った3月31日。
星組、麻路さき&白城あやかの新トップコンビのお披露目公演『国境のない地図』でした。
この年に初舞台を踏んだのが、81期生。
のちの花組トップスター真飛聖、宙組トップスター大和悠河、雪組娘役トップ舞風りら、花組娘役トップふづき美世らが、この期にあたります。
1月17日は音楽学校の卒業試験の当日でした。
大劇場が閉鎖され、初舞台を踏めるかどうかもわからない中で、無事この公演で初舞台を踏み、ロケットでは復興の喜びを表すという意味で「第九」が使われました。
でも、とはいえ被災地・宝塚での公演。
再開初日こそ立ち見まで出る満席の中の公演でしたが、震災前のように客席が埋まることはなかったと言います。
sora も震災後に大劇場へ足を運んだのは再開からさらに数か月、秋冬ごろになってからだった気がします。
あるスターさんは、真っ赤に染まる(空席だらけ)の2階席を見上げるのが辛い、と語っていたそうですね。
でも、その後の東北の震災、今も続くコロナ禍にも言えることですが、宝塚歌劇がこうしていつの時にも夢を紡ぎ続けてくれることが、多くの人々の「生きる希望」や「生きる意味」「生きる喜び」に繋がっています。
再開初日、トップスターのまりこさんは、「73日間がとても長かった。この日を一生忘れません。」とご挨拶されていました。
ファンもあの日を決して忘れていないと思います…。
まとめ
あの震災から28年。
いま改めて振り返ってみると、被災地にありながら、信じられないスピードで公演を再開した宝塚歌劇団。
決して簡単なことではなかったはずです。
新劇場の建設に巨額の投資をした直後の大劇場被災。
舞台装置、衣装やセットの修復はもちろんのこと、強いられた公演日程の変更、再編、そして待ち望むファンの声や要望、忘れてはならない地元被災者の声 …
宝塚歌劇団という存在。
間もなく110年の記念イヤーを迎えますが、やっぱりなくてはならない存在。
時としていろいろと「モノ申したい」ときもあるにはありますが(笑)、今はひとことだけ言わせていただきます。
FOREVER TAKARAZUKA!!
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