
みなさんは、ウクライナという国のことをどのくらい知っていますか?
ロシア軍は、2022年2月24日、プーチン大統領がウクライナ東部での特別軍事作戦を許可した直後にウクライナの複数の都市にミサイルを発射し、南海岸に軍隊を上陸させました。そして5月現在、いまもなおウクライナの人々は戦禍の下に不安と恐怖の日々を過ごしています。
『ウクライナ』と聞いて、それがどんな国であるかをすぐにイメージできる日本人はそんなに多くないのではないでしょうか。
実際、この記事を書いている私も歴史には関心が高いほうではありますが、正直なところウクライナに関する知識は『旧ソ連の東欧の国』程度の知識しか持ち合わせていませんでした。
しかしながらここ最近、毎日のように飛び込んでくるウクライナの緊迫した状況や人々の悲痛な叫びを見聞きしているうちに、単なるニュースとしてではなく、ウクライナの置かれている状況をもっときちんと理解したいと思い始めました。
そこで、これまでウクライナがどのような歴史を歩み、今日に至っているのかを詳しく調べてみることにしました。
ペレストロイカによりソビエト連邦から独立を果たす
ウクライナは1991年8月24日にソビエト連邦から正式に独立しました。
以来、モスクワと西側諸国の影響力の間で揺れ動きながら、様々な紛争を乗り越えここまで民主主義国家を維持してきましたが、現在、ロシア軍のウクライナへの侵攻により独立国家としての存在を脅かされています。
ウクライナの首都キーウ(キエフ)は、これまでに国が歩んできた30年の歴史の中でも最も緊迫した状態となっています。

ゴルバチョフ政権下の「ペレストロイカ」で東欧革命が巻き起こる
1985年以降、ソ連の最高指導者であったゴルバチョフ書記長は、60年代後半から続いていたソ連経済の停滞に対する批判の声を敏感に察知していました。
そして1987年、ゴルバチョフ書記長は東欧諸国への内政干渉を行わないと宣言します。
これにより、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニアなどの東欧諸国で民主派が次々と勝利し、一党独裁体制がどんどん倒されていきました。
ウクライナも例外ではなく、1990年1月に40万人以上が手をつなぎ、西部の都市イワノフランキフスクから中北部の首都キーウ(キエフ)までの約400マイルに及ぶ人間の鎖を作りました。
そして、ソ連支配下では禁止されていた青と黄色のウクライナ国旗を多くの人が振ったといいます。
同じ年の7月には、旧ソ連議会から独立したウクライナ議会がソ連からの独立を宣言することを決議、翌1991年8月24日、ウクライナ議会は2度目の独立を宣言し、12月にはそれを正式に承認する国民投票が行われ、92%という圧倒的あ賛成票を得て、正式に独立を果たしたのです。
こうして東欧革命吹き荒れる中、ソビエト連邦は1991年12月26日をもって解体されました。
独立したウクライナ、繰り返される大統領選にはロシアの影
独立を果たしたときにウクライナで大統領に選出されたのはレオニード・クラフチュク氏でしたが、その3年後の1994年にはレオニード・クチュマ氏がクラフチュク氏を破り大統領に就任します。
クチュマ氏はその後10年に渡り大統領を務め、ウクライナをソビエト共和国から資本主義社会へと移行させたり、企業の民営化や国際的な経済機会の向上に取り組んだりしますが、2000年にジャーナリスト暗殺の指示をしたことが発覚、その地位が揺らぐことに。
クチュマ氏が2004年に大統領を退くと、クチュマ氏が後継者として指名したヴィクトール・ヤヌコヴィッチ氏が率いロシアの、ロシアのプーチン大統領も支援していた与党と、民主化を求める野党の人気リーダー、ヴィクトール・ユシチェンコ氏が争う大統領選挙が行われます。
しかしユシチェンコ氏は、この選挙戦の後半になって謎の病に倒れます。この原因不明の病は、何者かに「毒」を盛られたことが原因であったと医師によって確認されています。
不正選挙であると非難される中でヤヌスコヴィッチ氏が選挙に勝利しますが、「オレンジ革命」と呼ばれる大規模な抗議運動が巻き起こり、再投票が行われることに。
その結果、親欧米派の元首相であるヴィクトル・ユシチェンコ氏が大統領に選出され、2005年、彼はウクライナをクレムリンの軌道から外してNATOとEUに導くことを公約し、政権に就きましたが、2010年に行われた大統領選ではヤヌコヴィッチが勝利、彼はウクライナは『中立国家』としてロシアとNATOなどの西側同盟の両方と協力すべきであると主張します。
そして2013年11月、EUとの貿易連合交渉を中断し、モスクワとの経済関係の復活を選びました。この発表を受け、ヤヌコヴィッチに辞任を求めるオレンジ革命以来の大規模な抗議デモが起こり、首都キエフではマイダン(独立)広場で参加者らが野宿を始めます。
やがてそのデモは暴動と化し、2014年2月下旬、警察とデモ隊の間で衝突が起こり、デモの参加者数100人以上が死亡するという痛ましい事件へと発展しました。
予定されていた弾劾投票を前にしてヤヌコヴィッチはロシアへ逃亡、ウクライナ議会は全会一致でヤヌコヴィッチを解任して暫定政権を発足させ、この暫定政権はEU協定に署名することを発表したのです。
クリミア半島離脱問題を抱えて新政権誕生
ウクライナ議会がヤヌコヴィッチを解任した数日後、ウクライナのクリミア半島で武装勢力が議会を占拠し、ロシア国旗を掲揚するという出来事が起こりました。
これは、ウクライナの政権交代が違法なクーデターであると宣言していたロシアによるものでした。プーチンは当初、彼らがロシア兵であることを否定しましたが、のちに、そのことを認めています。

クリミア離脱問題長期化、国民の思いはNATO、EU加盟へ
ロシア軍がクリミア半島を制圧する中、2014年3月16日の住民投票では97%の有権者がロシアへの加盟を支持したとして、プーチン大統領はロシア議会でクリミア半島のロシア編入を発表します。第二次世界大戦後、欧州の国家が軍事力を行使して他国の領土を奪取したのは、この一件だけです。
米国と欧州の同盟国はロシアに制裁を科しましたが、簡単に事態が収まることはありませんでした。ウクライナ東部の国境に約4万人のロシア軍が集結し、ドンバス地方で衝突が起こり、現在に至るまでその衝突は続いています。
ロシアが支援する分離主義勢力が東部のドネツクとルハンスクの2つの地域で政府庁舎を襲撃し、ドネツク人民共和国、ルハンスク人民共和国として、それぞれの地域がウクライナからの独立を宣言したものの、国際社会はそれを認めておらず、いまもなお、ウクライナの一部として認識されています。
2014年9月には、ロシア、ウクライナ、フランス、ドイツの代表者がベラルーシで会談し、ドンバス地方の争いの終結を交渉することを試みますが、ロシアとウクライナとの間の停戦協定に署名はしたものの、停戦はすぐに破られ、その後も戦闘が続いていました。
翌2015年2月にベラルーシにて再び会合が開かれ2次協定に合意したものの、やはり争いを終結させるには至らず、現在に至るまでに14,000人以上が死亡、数万人が負傷し、100万人以上が避難を余儀なくされています。
こうしたクリミア半島のロシアによる併合問題と、東部での衝突が続く中で、ウクライナの国民感情は西側諸国へと傾き、NATOやEUへの加盟に関心が高まっていったのです。
コメディアンで俳優のゼレンスキー氏が大統領に選出される
ドンバス地方での戦闘が続く中で、ロシアはウクライナに対してサイバー攻撃を繰り返し行ってきました。
2016年にはウクライナの首都キーウ(キエフ)の送電網を攻撃し大規模な停電を引き起こし、2017年にはウクライナ国立銀行や主要なインフラに大規模な攻撃が及んでいます。これらのロシアからのサイバー攻撃は、現在に至るまで継続的に行われており、直近の大規模攻撃と言えば 2022年1月、ウクライナ政府のウェブサイトが標的にされた事件です。
ウクライナでは、2019年の大統領選において、ロシアとの和平とドンバス戦争の終結を公約に掲げ、ポロシェンコと経済の停滞やロシアとの紛争などの現状を地滑り的に非難した、ヴォロディミル・ゼレンスキーが大統領に選出されました。
ゼレンスキー氏は2015年から2019年にかけてウクライナで放送されたTVドラマ『国民の僕』で、ウクライナ大統領を演じ、絶大な人気を誇っていました。
ドラマの人気と同様に圧倒的な人気で大統領に選出されたゼレンスキー氏でしたが、就任後はウクライナが抱えている経済的な問題、汚職や長年続いている紛争などを解決に導くことができないままに、その支持率をどんどん落としていきました。
ウクライナ情勢は日増しに緊迫した状況へと追い込まれていく
2021年4月、ロシアは表向き『軍事演習』という名目で、ロシアとウクライナとの国境付近に約10万人もの軍隊を派遣しました。
まだこの時点でロシアによる侵攻が迫っていると考えるアナリストはほとんどいませんでしたが、ゼレンスキー大統領は、NATO指導部に対し、ウクライナがNATOに加盟できるよう準備してほしいと要請したのです。
その後、ロシアは軍を撤退させると発表したものの、実際には数万人が残存していたと言われています。
8月にはセレンスキー大統領がアメリカのホワイトハウスを訪れバイデン大統領と会談し、アメリカが「ロシアの侵略に直面しているウクライナの主権と領土の一体性にコミットしている」との言葉を引き出しますが、ウクライナのNATO加盟については、まだ必要条件が整っていないと突き返される結果に。
混迷のウクライナ情勢、セレンスキー大統領の支持率は2021年10月には25%と低迷していました。
ついに動き出したロシア軍、緊迫のウクライナ
2021年11月、ロシアがウクライナとの国境付近で兵力を増強し始めたため、これにはアメリカの情報当局も警戒感を示し、ブリュッセルにおいてNATO加盟国に「プーチン氏の意図はわからないが、動きには注意を払う必要がある」と説明しています。

欧米諸国とロシアとの間でギリギリの攻防が続く
2021年12月にはアメリカのバイデン大統領がロシアのプーチン大統領と電話で会談をし、ウクライナへの侵攻を行わないように要請するとともに、万が一、侵攻すれば代償を払うことになると警告しました。
これに対しプーチン大統領は、ウクライナをNATOに永久に加盟させないこと、ルーマニアやバルカン諸国など、1997年以降にNATOに加盟した国に駐留している軍隊を撤退させることをNATOに要求するなど持論を展開、アメリカとNATOに文書回答を要求しています。
危機回避のためにアメリカ、ロシア、欧州諸国の首脳や外交官が外交を重ねる中で、2022年1月にはロシア外務副大臣、セルゲイ・リャブコフはアメリカ当局に対し「ウクライナに侵攻する計画はない」と伝えてきました。
1月26日、アメリカとNATOはプーチン大統領の要求に対する回答書を提出し、ウクライナのNATO加盟を禁止することはできないが、軍備に関する諸々の小さな問題については交渉の余地があるとの意思を示しました。
2月にはフランスのマクロン大統領とドイツのショルツ首相がモスクワとキーウ(キエフ)を往復する中、アメリカのバイデン大統領はアメリカ軍1000人をドイツからルーマニアへ移動させるとともに、ポーランドとドイツへアメリカ軍2000年の追加配備を命じます。
事態はどんどん深刻な方向へ動いていきました。
ついに、ロシアがウクライナへ侵攻を開始
2022年2月10日、ベラルーシとの合同軍事演習を開始したロシアは、ウクライナ北部の国境沿いに約3万人のロシア軍を駐留させました。
これを受け、翌2月11日にはアメリカとイギリスが自国民に対してウクライナからの退避を促し、バイデン大統領は更に2000人の部隊をポーランドに派遣することを発表します。
2月中旬にはウクライナ東部のドネツク、ルハンスク両地域でロシアの支援を受けた分離主義者とウクライナ軍との戦闘が激化し、分離主義指導者が避難を呼びかけました。そして、ロシアがウクライナとの国境に兵力を増強し続けていることに危機感を募らせていきます。
バイデン大統領らアメリカ政府の高官が「ロシアはウクライナへの侵攻を決定したと思われる」と警告を強める中、プーチン大統領は2月21日、ドネツク人民共和国とルハンスク人民共和国の独立を正式に承認すると発表しました。さらには、ロシア軍に「平和の維持」という名目で、現地に軍隊を派遣するよう命じたのです。
これに対し、アメリカやイギリス、EUはこれを「ロシアによるウクライナ侵略の開始である」と断じ、ロシアの銀行とオリガルヒを対象とした広範な制裁措置を実行しますが、侵攻は続きます。
そして、2月24日、ロシア軍はついにウクライナへの壊滅的な攻撃を開始しました。
ウクライナの首都の呼称をキエフからキーウへ

日本の外務省は、ウクライナの置かれている状況や国際情勢を鑑み、ウクライナの首都の呼称を変更する旨、下記の報道発表を行いました。
ウクライナの首都等の呼称の変更(令和4年3月31日)
ロシアによる侵略を受け、日本政府としてウクライナ支援及びウクライナとの一層の連帯を示すための行動について幅広く検討を行ってきたところですが、ウクライナの首都の呼称をロシア語からウクライナ語に変更してはどうかとの指摘が各方面から寄せられました。これを踏まえ、適切な呼称についてウクライナ政府の意向について照会を行っていたところ、今般、ウクライナ側から回答が得られたことから、ウクライナの首都の呼称をロシア語による読み方に基づく「キエフ」からウクライナ語による読み方に基づく「キーウ」に変更することとしました。また、首都以外の地名についても、ウクライナ語による読み方に基づく呼称に変更することとしました。
ロシアによる侵略は、明らかにウクライナの主権及び領土の一体性を侵害し、武力の行使を禁ずる国際法の深刻な違反であり、国連憲章の重大な違反です。我が国は、引き続きウクライナ及びウクライナ国民に寄り添い、事態の改善に向けてG7を始めとする国際社会と連携して取り組んでいきます。
また防衛省では、省が作成する資料にウクライナ語に沿った「キーウ」を併記することになりました。記者会見で岸防衛大臣は、主要メディアの対応や、国民への情報発信という観点も踏まえて見直したと説明しています。
『キエフ』の名称表記をめぐっては、「侵略している側のロシア語に基づいていて適切ではない」との理由から『キーウ』を用いるよう求める意見が自民党内から出ていました。
歴史は “いま” を生きる人々へのメッセージ

こうしてウクライナとロシアとの関係性を紐解いてみると、ソ連時代から複雑に絡み合った東欧諸国の苦悩を垣間見ることができます。
平和の中で生まれ育ち、日々の些細なことにもイライラしたり、文句を言ったりしながら、それでも『日常』という自由な暮らしが目の前にあることの有難さを感じずにはいられません。
数十年前まだ学生だった頃、米ソの冷戦が終結し、ベルリンの壁は崩壊、そして東欧諸国で吹き荒れた東欧革命、その歴史の数々の節目とも言える出来事をテレビのこちら側で見てきましたが、あの時からずっと変わらず歴史に翻弄され続けてきた人々がいることを、そして今も苦しみの中にいる人々がいることを、決して忘れてはならないと改めて思います。