フランス革命と聞けば、真っ先にマリー・アントワネットやロベスピエール、そしてデムーランやダントンといった人たちが頭に浮かぶ方が多いのではないでしょうか。
今回取り上げるジャック・ネッケルはという人物は、革命が起こる前、贅を尽くしていたフランス王室の財政状況を国庫を預かる財務大臣として国民にオープンにし、やがて自身の罷免が革命の大きな引き金にもなったという、実は歴史上のとても重要な人です。
ネッケルさんが革命の時代に、どんな役割を果たし、どんな人生を送ったのかを紐解いていきたいと思います。
ジャック・ネッケルってどんな人?
まずはざっくり、ジャック・ネッケルについてご紹介しますと、、、
✅ スイス・ジュネーヴ出身の銀行家
✅ フランスでは第三身分
✅ 銀行家として成功してブルジョワ(有産の市民階級)へ成り上がる
✅ 貴族たちに倹約を迫り、王妃や保守派の貴族たちに疎まれていた
✅ 王室の財政状況を市民に開示して人気を博す
✅ ネッケルが国王に罷免されたことが革命のっきかけになる
✅ 最期はスイスに戻って生涯を終える
ジャック・ネッケルは歴史好きな人にはお馴染みの人物ですが、一般的には何をした人なのか、あまり知られていないかも知れません。
でも、実は、この人の存在なくしてフランス革命は語れない、というほど重要な人物です。
そして、ネッケルが行った国庫の情報開示は、「国家の安定」にとっていかに重要なことであるかということを、現代にも語り継いでいるのではないかとさえ感じます。
情報の隠ぺい、改ざん、それは国民の不信を招き、世が世であれば「革命」にもつながる重大な問題である、と。
スイス生まれの銀行家、ネッケルは人気者
ジャック・ネッケルは、1732年9月30日にスイスのジュネーヴで生まれました。
ネッケルの父親はプロイセン(現在のポーランド北部からカリーニングラード州(ロシアの飛び地)およびリトアニアにかけての地域)出身の移民であり、ジュネーヴで憲法、行政法、刑法、刑事訴訟法など、公法の教授をしていました。
ネッケルの幼少期についてはほとんど記述がなく、具体的な生活を垣間見ることはできませんでしたが、富を築くために、少年時代からフランスへ渡ってパリに住むようになったようです。
パリで銀行家となった彼は、穀物の投機で莫大な利益を上げ、上流階級の仲間入りを果たしました。
貴族ではなく、いわゆるブルジョワ。
第三身分であった彼は、庶民から絶大な人気がありました。
そして、熟練した実務家であり、人脈にも恵まれていました。
パリだけでなく、スイスやオランダの外国人金融業者の協力をも得ることができたといいます。
当時、度重なる戦争により財政状態が急激に悪化していたフランス。
そこでネッケルに白羽の矢が立ちます。
ルイ16世は、会計・金融の知識に優れ、人脈の広いジャック・ネッケルを財務大臣に任命しました。
最初の任命と罷免
ネッケルが財務長官に初めて任命されたのは、フランスの国家財政が危機的状であった1777年。
当時のフランスは腐敗していました。
財務長官に任命される
人口の3%にも満たない上流階級の貴族たちが、国の富の90%を保有していたというのは有名な話です。
また、国民に課せられた税金を徴収する「徴税請負人」たちは、国から求められた金額以上の税金を市民たちから徴収し、私腹を肥やしていました。
彼らは市民から集めた税金を、財務省に渡すどころか、高い利子を付けてこともあろうに王家に貸し付ける者までいたといいます。
こうした状況のフランスの財政を改革するには、財界のみならず、社交界においても人気のあったネッケルは、うってつけの人材でした。
外国人なので、客観性がある。
貴族ではない。
徴税請負人たちとも距離がある。
スイス出身なのでジュネーヴの金融界にも顔が利き、国王のためにカネの工面をしやすい。
ネッケルは、就任した早々に自身の俸給を辞退し、庶民の人気を集めます。
一方で、浪費癖が問題になっていた王妃マリー・アントワネットや貴族階級の人々に倹約を迫り、王妃や保守派の貴族たちにかなり疎ましがられてしまいます。
財務長官に就任したネッケルは、まず「徴税請負人」の数を削減、抜き打ちでの監査を実施し、国家財務を元帳で集中管理することを試みます。
しかし、当然ながらこうした改革は、それまで既得権に左うちわだった層から猛烈な反発を招きました。
パリにの街には「ネッケルが国庫を自分の懐に収めようとしている」などという、根も葉もない悪評が書かれた新聞がばらまかれ、ネッケルへの批判が高まっていきます。
この状況に、黙って批判に甘んじるネッケルではありませんでした。
反撃に出ます。
国庫財政を国民へ開示する
国庫の財務情報を開示して、それまで繰り広げられていた「ネッケルが国のお金を懐に入れようとしている」という批判を論破しようとしたのです。
1781年、ネッケルによって「国王への会計報告」という文書が公表されました。
つまり、王家の財政状況の報告書です。
この報告書によれば、フランスの国庫は1020万リーブルの黒字。
ネッケルは、自らを擁護することに加え、ヨーロッパ各国の金融界にも「フランスの国庫は大丈夫」と発信することで資金の調達を試みたとの見方もあります。
この「会計報告」は10万部も売れ大ベストセラーになりました。
国外にも翻訳され、数千部が売れたと言われています。
まだ文字を読み書きできる人が多くないこの時代において、これは驚異的な数字です。
絶対王政を敷く当時のフランスにおいて、国の財務状況を国民に開示する義務はもちろんなかったわけで、その内情が暴露された衝撃は、とてつもなく大きかったことがうかがえますね。
この「会計報告」によって、どこにどれだけのお金が費やされていたかが明確に示され、一般庶民の生活に関心が払われていなかったことも明るみになりました。
辞任に追い込まれる
ネッケルは、国の財政状況を公表し、いわゆる「予算」の均衡化を説きました。
しかし、自分たちの給金を暴露されたうえに「高すぎる」と指摘された廷臣たちや、「でたらめな予算書を公表して人気取りをしただけだ」などと怒った財政官たちからの怒り、批判は強まるばかり。
ついに、ネッケルは成す術を失い、辞任を余儀なくされてしまいます。
ネッケルの再登板、そして解任
一時期は、大衆紙に大々的に批判され、その人気にも陰りが見えたかに思えたネッケルですが、実はその後の「国王への会計報告」の発行により、民衆からは「王家の秘密を暴いた」と絶大な支持を得ていました。
ネッケルが財務長官を辞任した後も、新聞には度々ネッケルが公表した「会計報告」に関する特集記事が掲載されていました。
また、ネッケルが去った後の王室では、立て続けに2名の財務長官が任命されていましたが、いずれの政策もうまくいかず。
結局は、ネッケルほどに仕事ができる財務担当の後任が見つからず、かつてネッケルが筋道をつけた通りの改革が進められていたといいます。
再び財務長官に任命、三部会の開催へ
財政難であるフランスの苦境は変わりません。
ルイ16世は、免税特権を享受していた貴族や聖職者たちからも税金を徴収しようとしましたが、パリ高等法院はこれを拒否、フランスの各身分(聖職者、貴族階級、市民階級)の代表者が集まる「三部会」を開くことを要求していました。
そしてルイ16世は、1788年、再びネッケルを財務長官に任命することを決断します。
ネッケルはこのとき、国王に対して「三部会」の開催を条件として財務長官の職に再登板することを受諾したと言われています。
「三部会」を開くことで世論を味方につけ、特権階級への課税を試みようとしたのです。
第三身分、とりわけブルジョワの人々に大変な人気があったネッケル。
彼が再び財務長官に任命されたという知らせがパリに寄せられてた時には、パレ・ロワイヤルに市民たちが1万人以上も集まり、拍手喝采となったといいます。
財務長官に復帰したネッケルは、財政の立て直しにあたるとともに、宮廷内での改革を進めていきます。
そして翌1789年5月、ルイ16世は、特権身分(聖職者や貴族)に対する「課税」を承認させるため、実に175年ぶりの「三部会」を開催しました。
この「三部会」でネッケルは、国庫の赤字について報告し、特権身分である聖職者や貴族に対する課税の必要性と、圧倒的に人口の多い第三身分の議席数を増やすことを主張しました。
第三身分の人々は、この「三部会」を通して自分たちがどれほど不平等な立場に置かれているのかを思い知らされ、その後、第三身分による政治的平等を求める動きは活発になっていきます。
6月には「国民議会」への改称、憲法の制定を要求、「球戯場の誓い」を経て7月に「国民議会」が発足しました。
こうした政治的流れの中で、第三身分の側に立ち、聖職者や貴族に対する増税を主張し続けたネッケルでしたが、徐々に、貴族によるネッケルへの退任要求が強まっていきます。
ネッケルの罷免、そして革命へ
第三身分の人々によって「球戯場の誓い」が交わされた3日後の6月23日。
パリ市民の間で、王妃マリー・アントワネットが、財務長官ネッケルを罷免するよう国王に要求しているという噂が駆け巡りました。
それを聞いて怒り狂った民衆が大挙してヴェルサイユへ押し寄せ、宮殿の門扉の前を埋め尽くしました。
この騒ぎを知ったネッケルが、民衆を安心させるために姿を現すと、民衆は彼を拍手喝采で迎えたと言われています。
愕然としたのは、この様子を見ていた王室関係者たちです。
ただのウワサがきっかけで、これだけの大群衆がいとも簡単に集まってしまうのですから、恐れを感じるのも無理はないでしょう。
この騒動を受け、ルイ16世はパリとヴェルサイユに軍隊を集結させ、国民議会に監視の目を光らせるよう命じたます。
ただ、それによってパリには「民衆に対する圧力」のための兵士たちが多くうろつくこととなり、市民たちの不満は更に増していきます。
この状況を懸念したネッケルは、ルイ16世に苦言を呈しますが、ルイ16世は市民の声に対して聞く耳を持ちませんでした。
そして、ふたたびネッケルを罷免したのです。
これが、1789年7月11日 のことでした。
ネッケルが罷免されたというニュースは、翌日には一気にパリ中に広がりました。
改革派の若き弁護士、カミーユ・デムーランらが「ネッケルの罷免は国民に対する攻撃だ!」と民衆たちの怒りを煽り、国王への不満に火が付きます。
さらに、ネッケルの後任として財務長官に就任したのがマリー・アントワネットと親しかったブルトゥイユ男爵だったことから、「国民議会」が解散され、軍によってパリが制圧されるのでは?という不安広がっていき、人々はもはやパニック状態に陥っていました。
そして運命の日、1789年7月14日。
「民衆よ、武器を取れ!」
デムーランの呼びかけとともに、パリの民衆は一斉蜂起、バスティーユ監獄を襲撃したのです。
こうしてフランス革命の火ぶたが切って落とされました。
その後のネッケル
バスティーユ襲撃を受けて慌てたルイ16世は、そのわずか2日後の7月16日にネッケルを再び財務長官に就任させます。
しかし、その後も保守派の貴族や特権階級からの抵抗に阻まれ、効果的な財政再建策を見出すことはできず民衆からの支持を徐々に失っていきました。
バスティーユ襲撃から約1年後の1790年9月、ネッケルは自ら財務大臣を辞任。
生まれ故郷のスイス、ジュネーヴに戻り、歴史の舞台から姿を消しました。
1804年4月9日、71歳でその生涯を終えています。
まとめ
ネッケルは、その生涯において3度に渡ってルイ16世に財務長官に任命されました。
外国人であり、プロテスタントだったことから「総監」の称号は与えられなかったといいますが、今の世で言えば内務・大蔵・経済の各大臣が握っている権限をすべて任されていたようです。
もしも彼が、有能な銀行家としてだけでなく、政治的な根回し、多数派工作など、「政治家」として先を見通す能力に長けていたとしたら、、、歴史は変わっていたかも知れませんね。
ジャック・ネッケルさん。
ベルばらや、1789,フランス革命を舞台にした作品をご観劇の際は、こんな背景があったことを少し思い出してお楽しみいただけましたら幸いです!
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