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【歴史を学ぶ】フェルゼンはスパイだった!?マリー亡き後の知られざる凄惨な最期

フェルゼン

ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン。

マリー・アントワネットの愛人として、大変馴染みのある人物ですが、実際にどんな人生を送った人なのかを知る人は少ないのではないでしょうか。

フランス王妃の愛人としての浮名だけではなく、実はとても優秀な軍人であったことや、凄惨な最期を迎えていたことなど、一般にはあまり知られていないであろうフェルゼン伯爵の人生を深堀してみたいと思います。

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ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンってどんな人?

フェルゼン

まずはざっくり、ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンについてご紹介しますと、、、

✅スウェーデンの名門貴族に生まれる
✅フランス好きな父親の影響で幼い頃からフランス語に堪能だった
✅優秀な軍人で、スウェーデン国王グスタフ3世の寵臣
✅フランス王妃マリー・アントワネットの愛人
✅グスタフ3世によってフランスに送られた「スパイ」であるという説もある
✅フランス革命において国王夫妻の助命に奔走
✅スウェーデンへ帰国後、国民から嫌われる存在になっていく
✅国民からの凄惨なリンチを受け、命を落とす

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名門貴族の生まれで、マリー・アントワネットの愛人であることは、宝塚歌劇『ベルサイユのばら』にも描かれているフェルゼンの姿。

でも、アントワネットの処刑が行われて以降のフェルゼンについては、宝塚歌劇では描かれていません。

原作『ベルサイユのばら』にはフェルゼンの最期が描かれているのをご存知でしょうか。

ただ、そこに描かれている「最期」の姿よりも、実際のそれはもっと凄惨なものだったようです。

なぜ、そんな最期を迎えてしまったのか、、、

フェルゼンの生い立ち

ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン。

フェルゼン伯爵。

我々にはこの名前の発音が馴染んでいますが、Hans Axel von Fersen を正しく発音すると「フェルン」のほうが自然なんだそうです。

ずーーとフェルンと呼んできたので、違和感ありますね。(笑)

なので今回はいつも通りの「フェルゼン」で進めましょう。

フェルゼンは、1755年9月4日にスウェーデンの名門貴族、王室顧問をしていた父フレデリック侯爵の子息として誕生しました。

スウェーデン貴族でありながら、フランスのことが大好きだった父フレデリックは、家庭内でもフランス語で会話することを好んでいたといいます。

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そのため、フェルゼンも幼い頃からフランス語に馴染んでいました。

そのため彼が初めてマリー・アントワネットと会ったとき、フランス語で会話できたことが、二人を引き寄せるきっかけだったかも知れませんね。

フェルゼンは名門貴族らしく、幼少期から家庭教師の指導を受けたり、ブラウンシュヴァイク(ドイツ領の公国)やイタリアのトリノで教育を受けたりしています。

18世紀当時のスウェーデン富裕貴族の間では、子息たちをヨーロッパへ遊学させるという教育習慣がありました。

フェルゼンも例にもれず、15歳のときに家庭教師を伴い3年間のヨーロッパ遊学へ出ています。

マリー・アントワネットとの不倫

フェルゼンとマリー・アントワネットが運命の出会いを果たしたのは、1774年1月30日、二人がともに18歳の時でした。

仮面舞踏会での出会い

1773年12月に遊学先のパリで社交界デビューしていたフェルゼンは、その翌月にオペラ座で開催された仮面舞踏会に参加します。

そこにお忍びで参加していたのが、当時、王太子妃だったマリー・アントワネットでした。

お互いに訛ったフランス語(フェルゼンはスウェーデン出身、アントワネットはオーストリア出身)を話す二人は、すぐに打ち解け親しく会話を交わし、恋に落ちたようですが、このときは周囲が王太子妃の存在に気付き騒ぎ始めたため、その場から離れたといいます。

しかし、若い二人の恋心は簡単には消えなかったようです。

二人の熱い恋心が燃え上がる中、1774年5月、当時のフランス国王であったルイ15世が病死します。

そして、ルイ16世が王位を継承、マリー・アントワネットはフランス王妃となりました。

二人の出会いからわずか4か月後のことです。

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フェルゼンは、フランスの民衆たちに王妃との不倫の噂が広がることを懸念し、ルイ16世が戴冠した2日後に自らの意思でフランスを発ち、イギリスへ渡ります。

フェルゼンはアントワネットとの別れの辛さを他の女性で癒そうとしたのでしょうか、、、このイギリスの地で、知り合って2ケ月も経っていない貴族の令嬢にプロポーズしています。

が、令嬢はフェルゼンと一緒にフェルゼンの母国スウェーデンで暮らすことを受け入れられず、この結婚は成立しなかったといいます。

アントワネットとの再会

フェルゼンはその後、1778年にふたたびフランスへ戻ります。

二人は22歳になっていました。

ヴェルサイユ宮殿を訪れたフェルゼンは、3年振りにマリー・アントワネット再会を果たします。

そのとき、マリー・アントワネットはルイ16世の子どもを身ごもっていたといいますが、懐かしい顔を前に、満面の笑みを浮かべて彼を迎えたようです。

その後、マリー・アントワネットからヴェルサイユ宮殿のスウェーデン人で組織される連隊の連隊長に推薦されたフェルゼンは、連隊長の肩書をひっさげ、堂々とヴェルサイユ宮殿内を闊歩するようになりました。

このときマリー・アントワネットが大のお気に入りでそばに置いていたポリニャック夫人は、こともあろうに王妃アントワネットに「外国人であるフェルゼンは遊び相手には申し分ない!」と、不倫を勧めていたのだとか。

しかし、この状況に危機感を感じていた在仏スウェーデン大使は、本国スウェーデンへこう報告書を送っています。

「フェルゼンと王妃マリー・アントワネットとの不倫は極めて危険である」

そしてこう進言します。

「フェルゼンがパリを去るために、彼をアメリカ独立戦争に従軍させるべきです」

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そしてフェルゼンは1779年にフランス軍の王立バヴィエール連隊に入隊、アメリカの独立戦争を支援するロシャンボー将軍のフランス軍団の副官として従軍することになります。

これにより、2年余り続いたアントワネットとの関係を(いったん)断ってフランスを去りました。

フェルゼン24歳のときのことです。

フェルゼンは「スパイ」だった!?

アメリカ独立戦争に従軍したフェルゼンは、単なるお飾り貴族ではなく、職業軍人としての才能を発揮し大活躍
しました。

1781年のヨークタウンの戦いで戦功をあげ、27歳でフランス軍の連隊長に昇格、1783年にはジョージ・ワシントンから勲章も受けています。

まその後スペインを支援するために南米ベネズエラへ向かいますが、1783年11月にはふたたびパリへ戻ってきました。

ただ、このとき3年半振りにパリに戻ってきたものの、アントワネットとの愛を確かめ合っているような暇はなかったようです。

今度は母国スウェーデンの国王グスタフ3世の随行を命じられ、諸国歴訪の旅へと再び旅立つのでした。

アントワネットとの不倫とスパイ活動

スウェーデン国王グスタフ3世の諸国歴訪の随行の役目を終え、パリに戻ったフェルゼンは、ふたたびアントワネットとの逢瀬を重ねるようになりました。

そして1785年、スウェーデン国王グスタフ3世はフェルゼンに「パリに定住」することを命じます。

フェルゼンがフランス王妃マリー・アントワネットと不倫の関係にあることを知っていたグスタフ3世が、なぜ、フェルゼンにパリ定住を命じたのでしょうか?

ここが「フェルゼンはスパイだった」と言われている謎の部分。

もちろん色々な説があります。

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そのひとつが、アメリカ独立戦争の従軍後、グスタフ3世王に随行して諸国歴訪の旅を終えてからのフェルゼンは「グスタフ3世直属のスパイだった」という説です。

当時のフランスと同様に、絶対王政を敷いていたスウェーデンの国王グスタフ3世にとって、フランス国内でくすぶる民衆革命の危機的な内情を探る必要があったのではないか、と。

フェルゼンをフランス王政の拠点であるヴェルサイユ宮殿に送り込み、優柔不断なルイ16世を横目に今や権力を欲しいがままにしていた王妃アントワネットを籠絡(ろうらく:巧みに手なずけて自分の思い通りにすること)し、スウェーデンにとって有利となるような政治的な画策をしていた?という考え方もあるようです。

バスティーユ襲撃、フランス革命勃発

フェルゼンがスパイなのか否か、その真偽は定かではありませんが、フェルゼンとアントワネットの互いへの愛情は確かなものだったようです。

のちに二人が残した身内への数々の手紙には、二人のそれぞれの思いがしたためられていたといいます。

しかし、時代は残酷に時を刻んでいました。

1789年7月14日、バスティーユが民衆の一斉蜂起により襲撃を受け、ここにフランス革命の火ぶたが切って落とされたのです。

同年10月5日には急進派の女性たちが大挙してヴェルサイユへ押し寄せた、ヴェルサイユ行進が勃発、翌10月6日に国王一家は捉えられ、パリのテュイルリー宮殿に軟禁されてしまいました。

このとき、マリー・アントワネットの取り巻きだった貴族たちのほとんどが国王一家を見捨てて他国へ亡命してしまいましたが、フェルゼンは違いました。

自らの危険を冒し、国王一家が軟禁されたテュイルリー宮殿近くの家の屋根裏部屋に隠れ住み、国王一家の救出を模索していたといいます。

こうした行動がグスタフ3世の指示によるスパイ活動だった可能性もありますが、少なくとも、フェルゼンのアントワネットを案じる思いは土台にあったのではないでしょうか。

ただ、このときに隠れ住んでいた屋根裏部屋。

実はフェルゼンの「別の愛人」が世話したと言われいます。(笑)

やっぱりモテモテの女好きだったんですね。www

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国王一家を救いたい!フェルゼンの奔走

フェルゼンは国王一家の窮地を救うため、国王一家に亡命を提案、実行に移します。

これが1791年6月の「ヴァレンヌ事件」と呼ばれる一件です。

ヴァレンヌ事件

フェルゼンとアントワネットの関係を知っていたルイ16世でしたが、フェルゼンの国王一家に対する献身的な振舞に、厚い信頼を寄せていたといいます。

亡命先はマリー・アントワネットの母国、オーストリアを予定していました。

午前1時過ぎ、国王一家は大型の馬車に乗り込み、フェルゼンが手綱を握ります。

午前6時頃になって、侍女たちが国王一家がいないことに気付き通報、民衆にもすぐにこの話は広り、怒り狂った民衆たちがヴェルサイユ宮殿にも押し寄せました。

国王一家を乗せた馬車は一路、オーストリアを目指していましたが、その道中、ルイ16世はフェルゼンにこう告げます。

「外国人に先導されることは避けたい」

「そして、妻と親しい男をこれから先へ連れていくことはできない」

そして、フェルゼンはボンディという街で国王一家に別れを告げました。

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しかし国王一家はその後、ヴァレンヌの地で捕らえられ、逃亡計画は失敗に終わったのでした。

途中でフェルゼンを下ろしてしまったルイ16世の判断が、もしかしたら国王一家の運命を変えたのかも知れないという見方もありますが、ルイ16世はどんな思いでフェルゼンに別れを告げたのか、、、。

この国王一家逃亡「ヴァレンヌ事件」が、結果として国民の怒りを倍増させ、国王と王妃の処刑に繋がっていきました。

国王夫妻の処刑とグスタフ3世の暗殺

ヴァレンヌ事件の後、パリのテュイルリー宮殿でふたたび幽閉された国王一家でしたが、フェルゼンはあきらめません。

巧みな変装姿でマリー・アントワネットのもとに現れ、新たな逃亡計画を提案します。

しかし国王ルイ16世は、フェルゼンからの提案を頑なに拒否、テュイルリー宮殿に留まることを選びました。

1792年8月になると、革命政府は国王一家を監獄として使用していたタンプル塔へ移送、ルイ16世とマリー・アントワネットを処刑台へ送るための裁判を急いでいました。

国王一家がタンプル塔に移送されてからも、フェルゼンはあきらめることなく何度も何度も次なる逃亡計画を企てては、マリー・アントワネットに提案していたといいますが、ルイ16世がまったく聞く耳を持ちません。

やがてフランス革命の激しさが増し、フェルゼンの身にも危険が迫ったためフェルゼンは隣国ベルギーのブリュッセルに逃避します。

それでも彼は引き続き、国王一家の救出に手を尽くしていたといいます。

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しかし、残念ながら願いは届かず。

✅1793年1月、フランス国王ルイ16世、革命広場にて処刑
✅1793年10月、フランス王妃マリー・アントワネット、革命広場にて処刑

これより少し前、1792年3月にはスウェーデン国王グスタフ3世が暗殺される事件が起こっていました。

フランス王室と良好な関係を築いていたグスタフ3世が暗殺されたことによって、スウェーデンはフランス革命から完全に距離を置くようになり、グスタフ3世の寵臣だったフェルセンの立場も必然的に危ういものとなり、フェルゼンもまた、これ以降、政治的に失脚していくのでした。

フェルゼンの凄惨な最期

スウェーデン国王グスタフ3世の暗殺によって政治的に失脚した上に、愛する人を失い絶望の淵に落とされたフェルセンは、このころから冷酷で愛想のない、暗い人間になってしまったと言われています。

愛する人を死に追いやった「民衆」への憎悪は並々ならぬものがあり、その後のフェルゼンは民衆に対する弾圧的なふるまいが増えていったといいます。

そのせいで、民衆からは嫌われる一方でした。

王太子の暗殺疑惑

とはいえ、暗殺されたグスタフ3世に代わって即位したグスタフ4世アドルフに仕えるようになったフェルゼンは、持ち前の優秀さを発揮して、政治的な地位も回復させていきます。

スウェーデンの国政にも携わるほど、権力を持つようになりました。

しかし、国政の混乱は続きます。

1809年にグスタフ4世の政治に怒りを持った国民によるクーデターが勃発、グスタフ4世は幽閉されてしまいました。

その後、スウェーデン国王にカール13世が即位します。

カール13世には世継ぎがいなかったことから、アウグステンブルク家からクリスチャン・アウグストが王太子として迎え入れられたのですが、この王太子が急死してしまったのです。

王位継承を目的とした暗殺(毒殺)だとウワサされ、国民の間では、これを企てたのがフェルゼンではないかと噂されていました。

国民からの不人気がその噂に拍車をかけます。

しかし、カール13世はそんな世間の噂話に動揺することもなく、フェルゼンに王太子クリスチャン・アウグストの葬儀を執り行うように命じました。

しかし、これがフェルゼンの運命を決定付けることになります。

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フェルゼン、最期のとき

1810年6月20日。

王太子クリスチャン・アウグストの遺体が葬儀のためにストックホルムに運ばれ、フェルゼンは王太子の「葬儀執行役」として遺体を迎えるため、6頭立ての馬車で葬儀場会場にやってきました。

葬儀会場であったストックホルム市内の広場にフェルゼンを乗せた馬車が現れると、そこに集まっていた民衆たちが石を投げ始め、あっという間に暴動へと発展。

フェルゼンに対して強い憎悪や反感を抱いていた民衆が、一斉にフェルゼンに襲いかかったのです。

民衆は口々に「殺人者」と叫びながら投石しはじめ、殴る、蹴るの凄惨な暴行を加えたといいます。

同行していた副官が、近衛連隊に群衆の制圧を命じましたが、近衛連隊は命令を拒否。

フェルゼンは、もはや身内であるはずの近衛兵たちからも嫌われる存在だったのです。

1時間以上も続いたというこの暴動のなかで、民衆から凄惨なリンチを受けるフェルゼンを本気で救出しようとする兵士は一人も居なかった、と。

副官は、フェルゼンを連れて広場に面した議事堂に隠れるしかありませんでした。

しかし、暴徒と化した民衆は建物に侵入、フェルセンを見つけ出します。

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議事堂前の階段に引きずられ、棒での殴打、そして踏みつけ、とにかく凄惨な暴行が行われたようです。

ひとしきりの騒動がおさまったあと、遺体となって見つかったフェルゼンは、全身傷だらけになった全裸姿で広場の排水溝に放置されていました。

『ベルサイユのばら』の原作では、撲殺された後、石畳に倒れているフェルゼンの姿が描かれていたと思いますが、実際の最期は、全裸で、しかも排水溝に投げ捨てられるという、想像するに堪えない最期でした。

フェルゼンは潔白だった

1810年12月、裁判所は王太子クリスチャン・アウグストが病死であったとの判断を下し、フェルゼンの潔白は証明されたのですが、、、

時はは巻き戻りません。

せめてもの救いは、汚名がはれたことにより、「高官」としての葬儀を許されたということでしょうか。

しかし、この暴動「フェルゼン殺害事件」で拘留された容疑者は700名いたと言いますが、最終的に終身刑の判決を受けたのはたったの2名。

王太子の死については潔白であっても、それまでのフェルゼンの振舞いが、スウェーデン国民、民衆たちに大きな憎悪を与えてしまっていたのでしょうけれど、、、

なんとも、言葉になりませんね。

名門貴族に生まれ、政治的な地位を得、アントワネットとの不倫、失脚、そして凄惨な最期・・・54年の生涯でした。

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まとめ

皆さまの想像の中のフェルゼンと、実際のフェルゼンはどう重なったでしょうか?

「王妃さまぁぁぁーーー」

そこから先のフェルゼンの人生を想像すると、なんだか『ベルばら』の見方が変わってしまいそう。(苦笑)

『1789』では、むしろ、想像するの、やめよっ。(笑)

なんだか切なくなる。

最後に・・・

フェルゼンは妹のソフィーに宛てた手紙の中で、アントワネットへの想いを綴っています。

「“この人のものになりたい”と願う、ただ1人の女性のものになれないのなら、わたしは誰のものになるつもりもない」

フェルゼンは、生涯独身を貫きました。

 

ジョージア

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