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【歴史を学ぶ】マリー・アントワネット ってどんな人?革命を生きたフランス王妃の生涯

マリ-・アントワネット

1755年、オーストリアのウィーンで生まれたマリー・アントワネットは、わずか14歳の幼さで後のフランス国王ルイ16世と結婚しました。

この若い夫婦は、やがて長きに渡ったフランス絶対王政が抱えた多くの問題を象徴する存在となります。

そして1789年にフランス革命が勃発すると、瞬く間に革命の波に呑み込まれ、4年後の1793年、それぞれに裁判にかけられ国民の手によって処刑されました。

フランス王妃、マリー・アントワネットの生涯を紐解いてみましょう。

マリーアントワネットの人生

マリーアントワネット

マリー・アントワネットは1755年11月2日、オーストリア皇后にしてハプスブルク家の女帝マリア・テレジアと、神聖ローマ皇帝フランチェスコ1世の15番目の子としてウィーンで生まれました。

マリー・アントワネットの教育は、18世紀の貴族の娘らしく、宗教と道徳に重点を置きながらも、より学問的な内容を学んでいたといいます。

14歳でフランス王太子との政略結婚

幼い頃のマリー・アントワネットは、ヨーロッパ大陸を形成する国同士の複雑な関係性の中で、外交の駒のような存在でした。

1763年にフランス×オーストリの7年戦争が終結し、両国の同盟関係を維持することが、母である女帝、マリア・テレジアの優先課題となっていたのです。

1766年、マリア・テレジアはフランスとの同盟関係を強固にしようと、幼い娘マリー・アントワネットとフランス王太子、ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)との結婚を約束します。

1768年にはときのフランス国王ルイ15世が孫の将来の妻を教育しようと、オーストリアまで家庭教師を派遣しました。

家庭教師によれば、マリー・アントワネットは「一般的なレベルよりは聡明」であるものの、「かなり怠惰で、とても軽薄な少女であるため教育は難しい」という評価だったようです。

そして1770年5月16日、約束通り二人は結婚、マリー・アントワネットはこのときまだ14歳、ルイ16世も15歳でした。

幼い花嫁は57台の馬車と117人の歩兵、376頭の馬に護衛され、母国オーストリアを離れ、結婚のためにフランスへ旅立ったのです。

マリーアントワネット

フランスのヴェルサイユ宮殿では豪華な結婚式が執り行われ、5,000人以上の招待客がまだ若い二人の結婚を見守ったといいます。

そして、この結婚をきっかけとして、マリー・アントワネットは世間から注目される存在となり、歴史の荒波に呑み込まれていくことになるのです。

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不幸な結婚生活の中で、孤独を募らせていく

幼いマリー・アントワネットにとってこの結婚は、憧れ、夢見ていたような幸せなものではありませんでした。

オーストリアの実家へ頻繁に送られてくる手紙には、かなり激しいホームシックが見て取れました。「お母様、あなたの手紙を受け取り、私の目には涙が浮かんできました」と書かれています。

また、フランス王室の女性として期待されるしきたりについても馴染めない様子が綴られていました。彼女はかなりの不満を漏らしていたようです。

王太子妃、つまりフランス王室の公人となったマリー・アントワネットの暮らしは、決して楽なものではありませんでした。

夫、ルイ16世との結婚生活もその後何年も成立しておらず、公務もほとんどありません。そのため、彼女は社交界や贅沢な趣味に時間を費やすしかなかったのです。

このことが、やがてフランスのあらゆる問題をマリー・アントワネットのせいにするという流れの発端になったと言えるでしょう。

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そして結婚から4年後の1774年、祖父であり時の国王ルイ15世が亡くなったことにより、夫であるルイ16世がフランス国王に即位します。(父、ルイ・フェルディナンは1765年に35歳の若さで亡くなっています)

そして、わずか19歳でマリー・アントワネットはフランス王妃となりました。

あまりにも違う二人の性格

ルイ16世とマリー・アントワネットの性格は、これ以上ないほどに違っていました。

ルイ16世は内向的で内気、優柔不断、趣味は読書や錠前づくり、金属細工など、ひとり孤独な時間を楽しむのに対し、マリー・アントワネットは快活で社交的、大胆な性格でギャンブルやパーティー、贅沢なファッションを愛していました。

国王が深夜に寝静まった頃、マリー・アントワネットのパーティーはまだ始まっていないと言われるほどで、彼女が正午前にやっと目を覚ますと、王はすでに何時間も仕事を続けていたと言います。

マリーアントワネット

1778年、マリー・アントワネットは第一子である娘マリー・テレーズ・シャルロットを出産していますが、その前年、娘とルイ16世の結婚がまだ成立していないと知った女帝マリア・テレジアは、直ちに息子でマリー・アントワネットの兄であるジョゼフ2世をフランスのマリー・アントワネットの元に向かわせ、助言を与えたのだとか。

その後はうまくいったのか、二人は男女2人ずつの子どもをもうけています。

やがてフランスに革命の足音が聞こえ始めます。

1780年以降、マリー・アントワネットはヴェルサイユ宮殿の敷地内にある小トリアノンという私邸で過ごすことが多くなっていきました。

スキャンダルにまみれ、国民からの信頼は失墜

王妃がしばらく子供を授からなかったことから、後継者が生まれなければ自分が王位を継承する権利を持っていたルイ16世の実弟を含む覇権争いのライバルたちが、マリー・アントワネットの不倫疑惑を風潮し、彼女が不当に非難されることもありました。

1785年にはダイヤモンド・ネックレスのスキャンダル、いわゆる首飾り事件が起こり、マリー・アントワネットの名声は失墜します。

これは、マリー・アントワネットになりすました泥棒が、647個のダイヤモンドのネックレスを盗み出し、ロンドンに密輸して売りさばいた事件です。

つまり、マリー・アントワネットには何の非もなかったわけですが、それまでの王妃の振る舞いに我慢ならなかった国民の目には、彼女に非があるように映ってしまったのです。

マリーアントワネット

また、この頃スウェーデンの外交官アクセル・フォン・フェルセン伯爵との関係が噂されるようになります。

マリー・アントワネットの政治に対する無知や浪費癖だけでなく、不倫を告発するパンフレットが数多く作られるようになっていきます。

こうしたスキャンダルは、国民からの王政の信用を失墜させるだけでなく、貴族たちでさえ、国王の主張する財政改革に激しく反対するようになっていきました。

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王室、そして王妃への不満は頂点に

フランスのこの時の財政難は、もちろん若い王妃のせいではありません。それまでの長きにわたる絶対王政の中で、このときすでにフランス財政はパンク状態にありました。

特にフランスが植民地のために介入したアメリカ独立戦争は、フランス国家に莫大な負債をもたらしていました。

フランスの財産の大部分を所有するのは第一身分の聖職者や、第二身分の貴族でしたが、彼らはその資産に対して税金を払う義務がない特権階級。

一方、第三身分とされる一般庶民は高い税金に生活を圧迫されていたので、王室の派手な支出に反感を抱いていたのは自然の成り行きであると言えます。

やがて個人の自由と、市民の平等に関する啓蒙思想に触発された第三身分の代表者たちは「国民議会」を結成し、初めてフランス市民の手に政治が委ねられることになりました。

パンがなければ、ケーキを食べさせましょう!

三部会から離脱した平民たちの勢いが増し、国王ルイ16世はそれを弾圧しようとしたことが国民の反発を買い、1789年7月14日、ついに市民はバスティーユ牢獄を襲撃、革命ののろしを上げます。

フランス革命

このとき、マリー・アントワネットは、ルイ16世に、軍隊と共にメッスに避難するよう説得したと言いますが、不発に終わっています。

しかしその後、封建制度の廃止と王権の制限を求める『国民会議』の動きを抑え込むよう説得し、その結果、彼女は反発を強める民衆から批判の標的となってしまいました。

このとき、民衆にパンがないと言われ「パンがなければ、ケーキを食べさせましょう!」と発言をしたという伝説が生まれました。

ただ、マリー・アントワネットが実際にこの言葉を実際に口にしたという証拠はどこにも残っておらず、このような発言は誇り高きフランス王妃の発言としては疑わしい、というのが一般的な見方のようです。

マリー・アントワネットはかなり贅沢な暮らしをしていましたが、一方では慈善事業に寄付をおこない、自国の庶民階級にはむしろ同情的でした。

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この発言は実際にはそれよりも数十年前にさかのぼり、1660年に太陽王ルイ14世に嫁いだスペイン王女、マリー・テレーズが発した言葉では」ないかと言われています。

フランスの庶民の暮らしは悪化し、民衆は王政と貴族が自分たちの暮らしを蝕んでいると考えるようになっていました。そして民衆の怒りの格好の矛先となったのは、マリー・アントワネットでした。

流行りの漫画家や新聞記者たちは、こぞってマリー・アントワネットを「オーストリアの卑しき女」として描き出し流布、フランス王政の弱体化を企んでいました。

国王一家はパリへ

やがてパンやその他の食料品が高騰し、ますます庶民の暮らしがひっ迫してくると、そのことに抗議するパリの女性たちが暴徒化、パリからヴェルサイユへと行進するという騒動に発展します。

民衆は王室一家の住むヴェルサイユ宮殿へと乗り込み、国王一家は民衆の圧力によってパリへ連れ出され、革命運動の人質となったのです。

1789年10月、バスチーユ牢獄の陥落から3か月後のことでした。

一連の出来事の中、夫であるルイ16世は無抵抗であったため、マリー・アントワネットは、パリに事実上監禁されていた王家を解放しようと、数々の秘密工作に関わる重要な役割を果たしたと言われています。

そして事件が起こります。

ヴァレンヌ事件がその後の運命を決定的に

1791年4月、国王一家はフランス国外にいる移民や友人たちに助けを求め、マリー・アントワネットの愛人関係が噂されていたスウェーデン伯爵のハンス・アクセル・フォン・フェルセンをはじめ、フランス貴族のルイ・オーギュスト・ル・トネリエ・ド・ブレテイユ、王党派のフランソワ・クロード・アモール・ド・ブイエ将軍などの協力を得て、フランス東部の辺境モンメディへの逃亡計画が練られたのです。

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同年6月20日の夜、国王一家は馬車でパリを脱出しますが、5日後の6月25日、道中ヴァレンヌで革命軍によって捕らえられ、パリに連れ戻されました。

フランス革命

この逃亡の失敗にはいくつもの計算違いと行き違いがあったとされますが、マリー・アントワネットが王家にふさわしい立派な馬車を用意させたために目立ちすぎてしまったということ、それに加え、膨大な量のドレスや宝飾品を馬車に積み込んだためスピードも出せなかったのが原因の一つと言われています。

また、まるでピクニックにでも行くかのように道中、寄り道をしながら呑気な『夜逃げ』だったようです。

そのため計画していた日程よりも随分と遅れてしまい、各地、道中で待っていた協力者たちとの行き違いを生んでしまったのでした。

国王一家がヴェルサイユからパリへ連れ出されたとき、実は、まだ民衆は王政に対してさほど反発しているわけでなく、王政を維持しながら旧体制を変えていくという流れがあったのですが、この国王一家の逃亡=裏切り行為によって、民衆の王家に対する信頼は完全に失われました。

そして、この逃亡劇には、民衆の怒りをさらに買うことになったであろうもう一つの理由がありました。

マリー・アントワネットの兄である神聖ローマ皇帝が、“フランスに侵攻して革命政府を倒し、王政と貴族の権力を復活させるため” 、国王一家の逃亡先であるオーストリアとの国境付近に軍隊を控えさせていたというのです。

これは民衆たちの『王妃憎し』の噂に過ぎませんでしたが、この事件は、民衆にとってマリー・アントワネットが『外国人=裏切者』であることを証明するには十分すぎる材料でした。

そして時代は一気に打倒・王政へと進んで行くことになります。

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アンシャンレジーム(旧体制)の終焉

一家での逃亡に失敗したマリー・アントワネットは、立憲君主制議会の指導者であるアントワーヌ・バルナーヴ、テオドール、アレクサンドル・ド・ラメスと秘密交渉を始めます。

急速に悪化する王室の立場を回復しようと必死だったのでしょう。

1791年9月に国王が新しい憲法を受諾することを決めた際には、当時の指導者レオポルド2世に対し内政にも外交にも信用ならないと警告し、それどころか、王権を回復するために列強の武装会議が必要であることを力説したと言います。

また、1792年4月、ジャコバン(急進派革命家)政権は、国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの忠誠心を試す意味もあってオーストリアに宣戦を布告します。

しかしフランス軍は壊滅的な打撃を受け、マリー・アントワネットがオーストリアとの謀略を続けていたと噂され、フランス国民をより一段と激怒させていきました。

こうしてマリー・アントワネットに対する国民の憎悪は、1792年8月ピークを迎えます。

暴徒化した民衆(革命軍)は、国王一家の暮らすパリのチュイルリー宮殿を襲撃して王権を停止、国王一家を牢獄へ送りました。俗にいう8月10日事件です。

フランス史上、はじめて『王のいないフランス』が誕生したのです。

マリーアントワネット

フランス王妃 マリー・アントワネット断頭台に散る

9月になると、男性普通選挙により国民公会が成立、正式に王政が廃止され、共和政の樹立が宣言されました。

この国民公会では急進共和主義であるジャコバン派が勢力を増し、何千人もの王党派を捕らえギロチンにかけ虐殺し始めます。

そして国王ルイ16世は1792年12月、国民公会により反逆罪で裁判にかけられ、翌1793年1月に革命広場において民衆の目の前で処刑されました。

マリー・アントワネットに対する動きも活発化していきます。

マリーアントワネット

1793年7月、彼女は幼い息子の親権を失い、革命裁判で性的虐待と近親相姦の罪で告発させれ、8月に王妃はコンシェルジュリーの独房に入れられました。

1793年10月14日、マリーアントワネットは革命法廷に引き出され、反逆罪で有罪判決を受けます。

マリーアントワネット

そしてその2日後、1793年10月16日に、革命広場において処刑され、マリー・アントワネットは37年の生涯を閉じました。

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マリー・アントワネットが現代に遺したもの

フランス絶対王政が革命によって終焉を迎え、事実上、フランス最後の王妃となったマリー・アントワネット。

そして、宮廷の贅沢な生活を我がままに謳歌し、王政時代の弊害を体現した象徴的な存在として悪者にされることも多い王妃。

一方ではその美貌とファッション、そして凛とした頼もしい女性として話題にのぼることも多々あります。

激動の時代に生まれ、革命の世を王妃として生き抜いたマリー・アントワネットが実際にどのような人物であったかは、当然ながらその時代に生きた人間にしか理解できることではありません。

しかしながら、21世紀の現代においても多くの映画や舞台で彼女の人生が語り継がれていることを考えれば、やはり魅力的な人物であることは否定できません。

マリーアントワネットーフランス革命

ただ、彼女の人生を知れば知るほど思うこと、それは彼女自身が、果たして自分の人生に『しあわせ』を感じることができていたのか、ということです。

このフランス革命は、決してこの時代に突然起こった歴史的変革ではないように思います。

長年に渡るヨーロッパの絶対王政や、欧州各国をまたぐ王家の覇権争いなどにより代々積み重ねられてきた多くの問題が、たまたまこの時代に爆発したものであると言えます。

そして、この革命は後世に間違いなく大きな変化をもたらしました。

マリー・アントワネットという存在は王政の弊害を象徴する存在であると同時に、それ以上に『自分らしい生き方』の象徴でもあるかも知れませんね。

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まとめ

混迷の時代に自分の生き方を貫き通したマリー・アントワネットという存在。

その華やかな暮らしぶりと浪費癖から、フランス王室を破滅に導いたという不名誉なイメージがついて回っていますが、本当にそうだったのでしょうか?

彼女もまた時代に翻弄され、数百年に渡る絶対王政の負の遺産を一手に請け負い散っていった犠牲者の一人であることには違いありません。

みなさんは、彼女の人生をどのように紐解くでしょうか?

 

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