マクシミリアン・ド・ロベスピエールはジャコバン派の急進的指導者であり、フランス革命の主要人物の一人です。
1789年にフランス革命が勃発、革命後の1793年後半には革命政府の主要機関である『公安委員会』を支配するようになり恐怖政治を展開します。
しかし、それからわずか1年足らず後、1794年7月には彼の考えに疑問を持ち協働した反対派に捕らえられ、ギロチンにより処刑されました。
ロベスピエールの人生を紐解いてみましょう。
革命家 ロベスピエールの生い立ち
ロベスピエールの正式な氏名は、マクシミリアン・マリー・イジドール・ド・ロベスピエールといいます。1758年5月6日、フランス北部にあるアラスという町で、4人兄弟の長男として誕生しました。
政治の舞台に登場するまで
母親は彼が6歳のときに亡くなり、弁護士であった父親はその後子どもたちのもとを去り、そのため4人の子どもたちは母方の祖父母のもとで育てられることになりました。
幼いロベスピエールは優秀で、パリで教育を受けた彼は1780年にリセ・ルイ・ル・グラン校を卒業、法律の学位を取得、生まれ故郷であるアラスで弁護士として働きながら豊かな収入を得ていました。
やがてロベスピエールは公的な役割を担うようになっていきます。
フランス王政の政治的変化を訴え、社会哲学者、ジャン・ジャック・ルソーの信奉者となり、良心だけを頼りに立つ高潔な人間の思想に興味を抱いていたのです。
それとともに、貧しい人々を守ることで評判となり、その厳格な道徳的価値観は人々から『清廉潔白の人』と呼ばれていました。
未来の革命家がフランス議会に登場
ロベスピエールは30歳のときにフランス議会の議員に選出され、彼はフランス王政に対する疑問を投げかけ、民主的な改革を提唱したことで国民からの人気を高めていきました。
また、死刑と奴隷制度にも反対しました。
しかし、彼のまったく妥協しない強硬な姿勢や、あらゆる権力に対する厳しい態度は、あまりにも極端すぎて、非現実的なものであると考える仲間もいたようです。
その後、立法府を離れたロベスピエールは、政府の外で自分の主張を展開するようになっっていきます。
フランス革命、そして恐怖政治へ
1789年に国王ルイ16世の命により、170年振り(ルイ13世以来)である『三部会』が召集されると、ロベスピエールは議員に当選します。
その後、彼は演説の名手として頭角を現し、同年4月には有力政党『ジャコバン派』の総裁に選出されました。
革命後、独裁政治を推し進める
それから1年後、フランス憲法の基礎となる「市民と人間の権利宣言」の作成に参加、1791年に共和国憲法が制定されると一時的に政治の世界から身を引きます。
しかし1792年8月、パリ市民が国王ルイ16世に対して蜂起したことをきっかけに、ロベスピエールは新たな国民公会のパリ代表団長に選出され、ジャコバン派のリーダーとして政治の舞台へ舞い戻ったのです。
独裁政治を推し進めるロベスピエールは、同年12月には国王ルイ16世の処刑を主張することに成功し、その後も群衆に貴族に対する蜂起を促していきます。
1793年7月27日、ロベスピエールは、事実上の独裁者として政府を監督するために結成された『公安委員会』のメンバーに選出されました。
このとき、外部だけでなく内部からの圧力にも直面していた革命政府は、9月になると「恐怖政治」を開始します。
恐怖政治に支配されたフランス
それから1年近くの間に、革命の敵と疑われた30万もの人々がが逮捕され、1万7千人以上が処刑されたといいます。そのほとんどが、革命広場に設置されたギロチンによる処刑でした。
処刑された人々の中には、エベールやダントンといった、フランス革命の貢献者たちも含まれています。そして敵対していたジロンド派を一掃、ロベスピエールはこの大量処刑の中で多くの政敵を排除していきました。
まるで生と死を支配する権力に酔ったかのように、ロベスピエールはさらなる粛清と処刑を要求し続けます。
しかし、それも長くは続きませんでした。
1794年の夏には、革命政府の人間たちの多くが、もはや国が外敵に脅かされていないことから、彼の考えに疑問を持ち始めたのです。
そして、やがてロベスピエールとその支持者たちに対抗するため、穏健派と革命派が手を組む複雑な共同体が結成されていきます。
ロベスピエールの死、そして遺したもの
1794年7月27日、テルミドールの反動によって、ロベスピエールと彼の協力者であった多くの人々は逮捕され、投獄されました。しかしロベスピエールは同情的な看守の助けで脱獄し、一部の側近とともにパリのオテル・ド・ビル(市庁舎)に身を寄せます。
ギロチンにかけられ36年の生涯を終える
オテル・ド・ビルに身を隠している間、国民公会はロベスピエールを謀反者であると認定しました。
これを知ったロベスピエールは自殺を図りますが、あごに傷を負った程度。その直後に国民公会の部隊がオテル・ド・ビルの建物を襲撃し、ロベスピエールとその側近たちをふたたび拘束・逮捕します。
そして翌日、ロベスピエールと21人の仲間は、これまで多くの人々を処刑してきたギロチンに、今度は自らがかけられ処刑されたのです。
ロベスピエールがもたらしたフランス共和政
ロベスピエールは独裁にはしり、恐怖政治のもとで、多くの人々を処刑台へと送ったことがクローズアップされていますが、一方では絶対王政への疑問を抱き、闘い、共和政への足掛かりを作った革命の功労者でもあるのではないでしょうか。
彼は、ジャン・ジャック・ルソーの唱えた民主主義国家の理想を掲げ、革命後の混乱を統制し、理想的なフランス共和国を築くために尽力しました。
しかしながら、理想を実現するためには何でも行うという彼の思考が極端過ぎたために、その思考にそぐわない人間が次々と捉えられ処刑されてしまったと言えるでしょう。
それでもやはり、民主主義の理想を追求し、絶対王政に立ち向かったロベスピエールのその行動力がなければ、現在のフランス共和国はなかったかも知れません。
まとめ
ものごとはよく「ほどほどがちょうど良い」と言われますが、どんなに崇高な人の思考・思想でも、やはり独りよがりが行き過ぎるとこうした結果を生み出し兼ねません。
またその一方で、理想がなければ何事も成し遂げることができないのも事実であるように思います。
歴史を動かすような大きな出来事の中で生きた人々と、自分のちっぽけな人生を比べるのははばかられますが、こうして彼の人生を紐解いてみると、誰もがロベスピエールになり得るのでは?と感じずにはいられません。
そうならないよう、人生でであう様々な事象に対し、いつも冷静にバランス感覚を持った思考を忘れず歩んでいきたいものです。
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