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ウィリアム・シェイクスピアってどんな人?イギリスの偉大なる作家

イギリスの代表的な作家といえばウィリアム・シェイクスピア。
誰もが一度はその名を聞いたことがあると思います。

『ハムレット』や『ロミオとジュリエット』などをはじめとして、多くの名作を残したウィリアム・シェイクスピア。

いったいどんな人物だったのでしょうか?

その生い立ちと、人生を辿ってみましょう。

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シェイクスピアの人生は謎に満ちている

ウィリアム・シェイクスピアについては、実は確かなことはほとんど分かっていません。現時点でわかっている彼の生涯については、登記所や裁判所の記録、結婚証明書や遺言書、そして彼の墓石にのこされている情報から得られたもので、未だ多くの「わからないこと」があるといいます。

Wikimedia Commons / Public Domain

ウィリアムの誕生

彼の誕生日は、1564年4月23日ごろとされています。

4月26日にストラトフォード・アポン・エイボンのホリー・トリニティで洗礼を受けており、その3日前の4月23日が一般的にはシェイクスピアの誕生日としてこの日に祝われます。

ウィリアムは、ジョン・シェイクスピアとメアリー・シェイクスピアの長男として、ストラトフォード・アポン・エイボンで生まれました。

ウィリアムの両親

ウィリアムの父ジョン・シェイクスピアは、手袋などに使われる柔らかい白革を専門とする皮革職人で、実業家として成功した彼は、隣村の名家アーデン家のメアリー・アーデンと結婚しました。

そして1556年に、現在「シェイクスピアの生家」として知られている、ヘンリーストリートにある家を購入しています。

ジョンとメアリーにはウィリアムよりも前に2人の女の子が生まれましたが、いずれも幼くして亡くなっています。

ウィリアムが生まれたあとには、ギルバート、リチャード、エドマンドという3人の弟と、アンとジョーンという2人の妹が生まれました。

しかし、アンとジョーンはともに7歳で亡くなり、ウィリアムは実質4人兄弟の長男として育ったのでした。

ウィリアムの父親ジョンは、ストラットフォードの市会議員になり、ウィリアムが5歳のときには市長にも上りつめます。

しかし、1576年頃に深刻な財政難に見舞われ、裕福な農夫であったロバート・アーデンの娘で、ストラトフォード近郊のウィルムコートの土地を相続していた妻の財産(父の遺産)を抵当に入れることを余儀なくされてしまうのです。

そしてジョン・シェイクスピアはやがて公職から身を引くことになりました。

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学生時代のウィリアム

シェイクスピアは、ストラットフォードの有力者の息子として、おそらく「ペティ」というグラマースクール(もしくはジュニアスクール)に通い、そこで文字を覚えたのではないかと言われています。

7歳くらいからはキングス・ニュー・スクールに進学し、1500年代のヨーロッパの国際語であったラテン語に重点を置いた教育を受けたと思われます。

15歳頃までここで学んでいたようです。このことは、ウィリアム・シェイクスピアについてのあいまいな記録の中でも、ほぼ確実であろうと言われています。

それには理由があって、シェイクスピアの戯曲をみてみると、ラテン語を口語と文語の両方で教えることを目的とした学校のカリキュラムを詳細に知っていることがわかると言うのです。

この学校のカリキュラムはラテン語の古典劇の暗記、作文、演技に重点を置いたものであったようです。

シェイクスピアの失われた時代、そして富と死

ウィリアム・シェイクスピアの人生について、完全にその足跡がわからないままの「失われた時代」があります。

それが、彼が結婚して子供を授かって以降の1585年から1592年までの7年間です。

1592年までのいずれかのタイミングでロンドンに出てきたことはわかっていますが、その間の彼の行動を知るための資料は残されていないようです。

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結婚、子ども、そして執筆活動

学校を卒業して数年後の1582年の末、18歳のシェイクスピアは、ショットリー近郊のヒューランズ農場の裕福な農夫リチャード・ハサウェイの娘アンと結婚しました。このとき彼女は26歳で、すでに第一子である娘、スザンナを身ごもっていました。

3年後の1585年には、双子のジュディス(娘)、ハムネット(息子)が生まれ、アンと子どもたちはそのままストラトフォードで暮らしていましたが、シェイクスピアはこのあとひとりロンドンに出て仕事をしていたようです。

でも、彼がいつロンドンに移ったのかはわかっていません。

シェイクスピアが妻のアンに子どもたちを任せきりにしてロンドンでひとり執筆活動を行っている間、家族には様々な変化がありました。

一人息子のハムネットは1596年に11歳で亡くなり、長女スザンナはストラトフォードの裕福な医師ジョン・ホールと結婚、1608年にシェイクスピアの初孫であるエリザベスが生まれます。

しかし、もう一人の娘ジュディスは1616年にストラトフォードのワイン醸造家トーマス・クィニーと結婚しましたが、数ヶ月後に亡くなっています。

その後シェイクスピアの一族は絶え、彼の直系子孫は存在していません。

執筆と演劇、ロンドン劇場での活躍

1585年に双子の子どもジュディスとハムネットが誕生してからの数年間、シェイクスピアがどのような活動をして、どのようにして生計を立てていたのか、どのタイミングでストラトフォードからロンドンへ移り住み、そして、どのようにして演劇界でのキャリアをスタートさせたのか、この時代の彼にについては確かなことは何もわかっていません

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シェイクスピアが演劇がらみの明確な記述に登場するのは1592年のことです。

ロンドンで俳優兼、劇作家として登場し、同時代の作家仲間から “Shake-scene”と揶揄されていました。

このシェイクスピアを揶揄した作家は、シェイクスピアの初期の歴史劇である『ヘンリー六世』の第三部 について言及しているといい、このとき既にこの作品が上演されていたことを物語っています。

しかし翌1593年、ロンドンでペストが流行し劇場が閉鎖を余儀なくされたことから、シェイクスピアは詩を書くようになります。

そして、若い廷臣でエリザベス女王のお気に入りだった、サウサンプトン第三伯爵ヘンリー・ウリオスリーに捧げる詩『ヴィーナスとアドニス』を発表しました。

そして1594年には彼の初期の戯曲、はじめての四つ折りの版が出版されました。

シェイクスピアは20年以上にわたってロンドンの劇場で俳優、劇作家として活動する傍ら、主要劇団である Lord Chamberlain’s Men(1603年にキングス・メンと改名)のビジネスパートナーとして複数の役割を担っていたと思われます。

晩年のシェイクスピアは、執筆活動や役者としてだけでなく、Lord Chamberlain’s Men とのパートナーシップによって経済的に潤っていました。

彼はその財産の多くをストラトフォードの不動産購入に投資し、1597年には町で2番目に大きな家、ニュー・プレイスを購入しています。

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晩年

父親であるジョン・シェイクスピアが晩年、すべての財産を失ったのに対し、ウィリアムは生涯で巨万の富を築くことに成功しました。

1598年にはニュー・プレイスがあるチャペル・ストリート区の住人として記録されています。

1601年に父親ジョンが亡くなり、長男としてヘンリー・ストリートの2軒の家も相続したと思われます。

そして1611年以降にロンドンから故郷ストラトフォードに引っ越したシェイクスピア。彼が最後に手掛けた作品は、1613年にジョン・フレッチャーととともに書き上げた戯曲『二人の王』でした。

シェイクスピアの死因は不明

1616年3月25日、シェイクスピアは自らの遺書を修正して署名、同年、生まれたとされる日と同じ1616年4月23日に亡くなりました。

ただし、正確な誕生日は不明であるため、誕生日と命日が同じ日であることについては、あくまでも推定です。

ちなみに正確な死因も不明のままです。

この1週間前に義兄が亡くなっていることから伝染病の可能性も指摘される声もありますが、シェイクスピアの健康状態が悪化したのはもっと前からのことだったというのが通説となっているです。

ウィリアム・シェイクスピアは、ストラトフォードのホリー・トリニティ教会に埋葬されました。

シェイクスピアの未亡人のアンはその後1623年に亡くなり、彼のそばに埋葬されました。

そして、のちの1670年に孫娘のエリザベスが亡くなると、シェイクスピアの家系はそこで終焉を迎えることになりました。

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まとめ

あまりにも遠い昔の時代の人なので、こうして人生を辿ってみても「なぞ」だらけ。

でも、何百年もの長きに渡りシェイクスピアの作品が受け継がれているこの事実を考えれば、その偉大さがよくわかりますんで。

シェイクスピア文学は、これまでにも世界中で多くの舞台や映画の題材となって世に送り出されてきました。

少々難解ではありますが、そこに秘められたシェイクスピアのメッセージを自分なりに読み解くのも面白いかも知れません。

眠れない夜のおともに、シェイクスピアはいかがでしょうか。

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