PR

【花組】『うたかたの恋』ルドルフ皇太子とマリー 恋物語の真実を探る

Sponsored Link

花組公演『うたかたの恋』にちなんで、公演をより楽しむために、ルドルフとマリーの人生を探ってみようと思います。

宝塚ファンの間ではあまりにも有名なこの作品ですが、この原作は遥か昔に出版されていて、いまはもう絶版で手に入りません。

その原作のモデルとなっているのが実在の人物、オーストリア帝国の皇太子ルドルフと伯爵令嬢マリー・ヴェッツェラです。

ふたりの純愛の物語が描かれていますが、実際の二人はどのような人生を歩んだのでしょうか。

『うたかたの恋』について

オーストリア、ハプスブルク帝国の皇太子ルドルフと男爵令嬢マリー・ヴェッツェラの悲恋を描いた宝塚歌劇『うたかたの恋』は、史実をベースにフランスの作家クロード・アネ(Claude Anet)が1930年に書いた『Mayerling』という小説がもとになっています。

日本では1954年に三笠書房から初めて翻訳本が出版され、その数年後に出版社を変えて再出版、最後に出版されたのが1969年、50年以上も前のことなので、すでに絶版となって手に入りません。

これまでにいくつかの国で映画化もされましたが、日本では、戦前検閲により上映禁止だったこともあるようです。

確かに、妻子ある皇太子が、若くて美しい男爵令嬢と駆け落ちして死んでしまう物語など、当時の日本では受け入れがたい内容であったことは容易に想像がつきます。

そんなこんなで今や『うたかたの恋』というタイトルは、小説でも映画でもほぼ出会うことのできない時代。

Sponsored Link

この作品はもはや知る人ぞ知る、宝塚のオリジナル柴田作品ではなかろうかと勘違いしそうになっている『うたかたの恋』なわけですが、2023年に初演から40年、大劇場公演としてはシメさん(紫苑ゆう)時代の星組以来、30年振りに花組が上演することになりました。

宝塚での上演の歴史や、実際に二人が心中した場所とされるマイヤーリンクのレポートは下記に書いていますので、興味のある方はどうぞ。

 

【花組】『うたかたの恋』宝塚歌劇での上演の歴史を振り返る
2023年、花組が大劇場では30年振りに『うたかたの恋』を上演することになりました。 これまで何度も何度も繰り返し上演されてきたので、いまいち新鮮味には欠けますが、うたかたと言えば大階段上でルドルフとマリーが板ついて始まるあのシーンが目に焼...

 

今回は、ハプスブルク家の歴史を紐解きつつ、実在したルドルフとマリーの人生を辿ってみたいと思います。

マイヤーリンクで何が起こったか

1889年1月29日の夜から30日にかけて、マイヤーリンクのハプスブルク家の邸宅、その2階の一室で、皇太子ルドルフは頭部を撃ち自ら命を絶ったとされています。

そのとき、一緒に亡くなっていたのが当時17歳のマリー・ヴェッツェラ男爵令嬢です。

皇太子の死は大きな衝撃を与えた

Wikipedia

このとき検死をおこなった医師の報告書によると、マリーはルドルフ皇太子に撃たれたと推測されています。

ウィーンの宮廷医が皇太子の遺体を検死し、脳の病理所見から「精神錯乱状態」であったことが証明されたため、皇太子は罪に問われることなく、教会の儀式に則って埋葬されることになりました。

一方のマリーの遺骨は、夜間、霧の中、ハイリゲンクロイツ修道院の墓地に埋葬されました。

この出来事を目撃したとされるルドルフの付き人、ヨハン・ロシェックなどの目撃者たちは生涯沈黙を守り(あるいは矛盾する供述をしたため)、この「運命のひと夜」に何が起こったのか、その真実は今日まで解明されていません。

このことに関する多くの文書が破棄されたとも言われています。

Sponsored Link

当然ながら、皇太子が愛人と一緒に自らの命を絶ったこのマイヤーリンク事件は、ハプスブルク王朝の信頼を揺るがす出来事でした。

事件から数日後の1889年2月初めには、早くもルドルフ皇太子と男爵令嬢に関する様々な報道が隣国ドイツの新聞に掲載されます。

しかしながら、あまりにもセンセーショナルなこのニュースは、裁判所の決定によって、2月15日にオーストリア=ハンガリーでの発信が禁止されました。

ハプスブルク家の皇太子であったルドルフの死後は、ハプスブルク家の法律によって叔父のカール・ルートヴィヒがオーストリア=ハンガリー帝国の王位継承者となっています。

本当は別の女性と心中したかった!?

マリーとの純愛が美しきドラマとなって語り継がれていますが、実は皇太子ルドルフには他にも愛人がいました。

ミジ・カスパー(1864-1907)もそのひとりです。

Wikipedia

彼女はルドルフの長年の愛人だったと言われています。

ミジ・カスパー(Mizzi Kaspar)は、当時のウィーンで「スーブレット」と呼ばれた高級性的サービス業を営んでいました。

多くの浮名を流したと言われるルドルフですが、ミジとは一緒に死のうと考えるほどに親密な関係にあったようです。

彼はミジに、ウィーンの3階建てタウンハウスを買い与え、莫大な現金と宝石類も与えました。

一方で、政治的な立場に呑み込まれ、様々な苦悩を抱えたルドルフは人生に疲れ、自暴自棄になり、ミジを道連れに死を選択しようとしますが、ミジはそれを拒否します。

Sponsored Link

それどころか、ルドルフが自ら死を選ぼうとしているその計画を警察に知らせたのです。

しかし、まったく相手にされませんでした。

マリー、悲しきルドルフの真実

驚いたことに、ルドルフはマリーと共に神に召される前日、1889年1月27日、28日にミジと最後の夜をウィーンの彼女の家で一緒に過ごしていました。

愛人ミジとの熱い夜を過ごしたのち、1月29日、計画どおりマイヤーリンクへ狩りに出かけたルドルフ。

そして翌1月30日の朝、ルドルフとまだ幼い17歳のマリー・ヴェツェラの遺体がマイヤーリングの別荘で発見されました。

この事実をどう受け止めれば良いのでしょうか … 。

さらに、ルドルフは遺言で、ミジに3万フローリンを遺贈しています。

ミジは当時24歳。

彼女は生涯インタビューに応じることもなく、もちろん日記も、手紙も、回想録も、ルドルフに関する記録は何も残していません。

Sponsored Link

マリー・ヴェッツェラの短い生涯

Wikipedia

Mary Vetsera の正式な名前は、Maria Alexandrine Freiin von Vetsera 。

良く知られているマリー(Mary)という名は、愛称なんですね。

1871年3月19日にオーストリアの首都、ウィーンで誕生しました。

競馬場で皇太子にひとめぼれ

伯爵令嬢であったマリーは、幼い頃よりウィーンのレンヴェーグにある「サレジオ会修道院」の 貴族女子教育施設 に通います。

4人いる叔父たちが、とても優秀な、名の知れた騎手であったため、マリーも競馬に大変興味を持っていたと言います。

1888年、フロイデナウの競馬場で出会った皇太子ルドルフに、当時の多くの少女たちと同様、マリーも恋心を抱いていました。

二人の間を取り持ったのが、ルドルフのいとこで、叔父のハインリッヒ・バルタッツィの愛人であるマリー・ラリッシュ伯爵夫人。

競馬場でルドルフ皇太子に出会ったマリーは、その後、皇太子のことを熱心に話すようになったといいます。

毎日ゴシップ記事を読み、写真を集め、手紙のやりとりを経て、1888年11月初旬にウィーン王宮で初めて面会した彼女は、ルドルフと激しく恋に落ちました。

しかし、実はマリーはこのときルドルフの親友であるブラガンザ公爵と婚約していたのです。

にもかかわらず、ルドルフの注目を集めるためにあらゆる策を弄していたようですね。

その後、運命のマイヤーリンクへ出かける1月28日までに、20回ほど面会を重ねたと思われますが、最初の面会から2か月少々。

Sponsored Link

ルドルフの、死に向かう間際までの愛人ミジへの執着を思うと、ルドルフにとってマリーの存在はいったいどんな位置付けだったのだろうかと、ますます疑念が湧いてきます。

これは「美しき恋物語」だけではないのでは?と。

ルドルフにとって純愛だったのか

Wikipedia

ルドルフ皇太子は、愛人のミジ・キャスパーと最後の夜を過ごした翌日、1889年1月28日、午後3時半ごろにマイヤーリンの別荘に到着しました。

一方、マリーは少し遅れてライプフィアーカー・ブラットフィシュの車でマイヤーリンクに到着。

このときルドルフの「監視」を担当していた警察官フロリアン・マイスナーの記録によれば…

「1889年1月28日月曜日、午前3時までミジのところにいた。シャンパンをたくさん飲んだ。管理人に門限代として10ギルダーを渡した。」

1月30日の朝、従者ヨハン・ロシェックが2人の遺体を発見した後、帝国大学医科大学がマイヤーリンクの別荘に派遣され、ヴェツェラは至近距離から頭を撃たれて死亡したと診断されました。

致命的な弾丸は頭蓋骨の左上の部分に入り、右耳の後ろから出ているが、マリーは右利きだったので、彼女が自分で銃を発射したことにはかなりの疑いがあるとして、ルドルフが彼女を撃ったとの説が有力とされています。

Sponsored Link

その行為の原因や経過については、さまざまな説があります。

ルドルフ皇太子が短い時間でマリーとの関係を築いたのは、共に死の旅に出る相手としてふさわしいと考えたたからだという「純愛じゃないのかも」説もあるにはありますが、現在入手できる資料だけではそれを証明することはできないようです。

マリーが母に宛てた別れの手紙

マリー・ヴェッツェラが母に宛てた「別れの手紙」が、2015年になって発見されました。

これまで、この手紙はマリーの母親の死後、破棄されたと考えられていました。

そこには、マリーが死の直前、「ルドルフを愛するがゆえ」に「ルドルフと一緒に死ぬ覚悟」をしていたことがはっきりと書かれていたといいます。

Wikipedia

ドイツ語なのでわかりませんが … ココにそういうことが書かれているそうです。

この文書は現在オーストリア国立図書館に保管されています。

Sponsored Link

二人が眠る場所

ふたりは同じ場所に眠ることは許されず、別々に埋葬されました。

ルドルフ皇太子の棺は、父である皇帝フランツヨーゼフ1世、皇后エリザベートとともに、オーストリア最大の地下聖堂であるウィーンのカプチン聖堂に埋葬されています。

Wikipedia

左がエリザベート皇后(1837-1898)、中央がオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916)、右が息子であるルドルフ皇太子(1858-1889)の棺です。

マリー・ヴェッツェラは、ウィーン近郊のハイリゲンクロイツ修道院の墓地に埋葬されています。

Wikipedia

マリー・ヴェッツェラの遺骨が盗まれる

1992年12月、マリーの遺骨がハイリゲンクロイツ修道院の墓地から真夜中に盗まれたことが明らかになりました。

この事件はウィーンのジャーナリスト、ゲオルク・マルクス氏が発見し、警察に通報して発覚しました。[16]

墓の苔むした接合部が露出しているのが発見された後、公式命令により墓が開けられ、棺が空であることがわかったのです。

遺体は、マイヤーリンク神話に関心を持つプーヘナウの家具商ヘルムート・フラッツェルシュタイナーが、2人の助手を連れて1991年7月8日に盗んだものでした。

遺体がもどったのち、ヴェツェラ家は法医学的分析を一度は許可したものの、捜査が終わる前にその許可を取り下げています。

遺体を掘り起こして盗むという手段は、明らかに否定されるべき方法ではありましたが、しかしながら、ある意味、歴史を探ることに成功したとの意見もあります。

Sponsored Link

マリー・ヴェッツェラの死因については、マイヤーリンク事件以降100年以上にわたって推測するしかありませんでしたが、遺体窃盗事件のあったこの1992年12月以降、マリーが「頭蓋骨を撃たれて死亡した」と証明する2つの法医学的報告がなされたのがその理由です。

以降、ハイリゲンクロイツ修道院は、さらなる法医学的検査には応じませんでした。

ちなみに、遺体を盗んだとされるヘルムート・フラッツェルシュタイナーは、時効によって刑事告訴は免れたそうですが、民事裁判の結果、修道院に27,500シリングの賠償金を支払う羽目になったそうです。

まとめ

真実は小説より奇なり。

『うたかたの恋』に描かれているルドルフ皇太子は、マリーを一途に愛し、美しく儚く散っていくイメージがありますが、実際のルドルフは色男!?

ルドルフの生涯を探ってみると、学生時代にもプラハでユダヤ系の女性と一世一代の恋と言われるような恋愛をしていたようですし(その後、相手の女性は追放され亡くなっています)、後に結婚した(不仲ではありましたが)妻ステファニーの存在も忘れてはなりません。

そのうえ、マリーと死に向かうマイヤーリンク事件の前夜まで別の女性のもとで別れを惜しみ、その女性に莫大な財産を遺していたわけですから、う~ん、ルドルフのイメージ変わりますね。(笑)

でも、宝塚歌劇『うたかたの恋』に登場するルドルフ皇太子は、どこまでもカッコ良く、スマートで、マリーとの純愛を貫く美男子!

ま、それでオッケーです。(笑)

楽しみましょう♡

【宝塚】花組『うたかたの恋』宝塚歌劇での上演の歴史を振り返る
『うたかたの恋』の舞台オーストリアの銘菓・本場のザッハトルテを日本で
【花組】柚香光『巡礼の年』千秋楽おめでとう!観劇(配信)の感想と労い
【宝塚】『エリザベート』夢見る妄想キャスト・アンケート結果発表!

Sponsored Link
タイトルとURLをコピーしました